蒼穹に落とされた自由は涙を零すか
アリババは呆然と自身の手を見下ろしていた。
握られたナイフには、鮮やかな紅が滴っている。それは刃を伝い柄を滑り、アリババの指を濡らした。
冷たいか熱いかも分からない。ただ、その目に痛いほどの色が意識を苛む。
何故そう思うのかは自分でも分からなかったが、もう戻れないのだ、と誰かが耳元で囁いているような気がした。
血に塗れたナイフが酷く哀しい。値の張る品ではなかったが、思い出と思い入れのある品だった。
だがそれも、汚れてしまった。違う、自分が穢した。
緩慢な動作で目線を動かすと、やや離れた位置に男が倒れ伏している。その身体の下には血だまりが出来つつあった。
考えるまでもない、あの男を刺し絶命させたのはアリババだ。
殺さなければ殺される、だから必死に抵抗した。殺したかったわけじゃない、頭のどこかはそう叫んでいるけれど事実としてアリババは自身の命を護るために他者を手に掛けたのだ。
ナイフを掴む手が震えている。遅れて、息がひどく乱れていることに気付いた。
「っう?!」
呻いたのは、唐突に横合いから出て来た何かにぐいと顎を上げさせられたからだ。
震える腕では振り払う事も出来ずに目線だけを向ければ、檻の外に立っていた奴隷商人の男が格子の隙間から杖らしき物を差し入れていた。
商人の隣りに立つ客の一人であろう男が、値踏みするようにアリババを見据えている。その視線が身体のあちこちに絡みつくようで、反射的に後ずさっていた。
顎を持ち上げていた杖が外れる。
荒い息のまま檻の外に立つ男たちを睨めば、客らしき男が面白そうに目を細めた。
それが、ひどく不快に思えてならなかった。
◆
歩きながら気付いたのは、アリババと自分の身長差が以前よりも開いていることだった。
スラムで暮らしていた頃は勿論、一晩きりの邂逅でしかなかった二年前も、体格差などほとんどなかった筈なのに。
アリババの背丈や体格はお世辞にも年相応とは言い難かった。
そのくせしてこの辺りではあまり見られない服装だったり、髪が伸びていたりするせいで一見すると誰なのか分からなくなる。記憶の中のアリババと今目の前にいるアリババとの印象がちぐはぐで噛み合わないのだ。
肩甲骨の辺りまで伸ばされた髪が、歩くたびにふわふわと揺れる。アリババがこんなに髪を長く伸ばしているのを見るのは、初めてだった。
背中側から眺める限りは、その首に嵌められた首輪は確認できない。だからこそ振り向かせた時に目に入ったそれに驚いてしまったのだ。
そう、首輪だった。
所有の証であるそれが意味する所を知らない筈もない。アリババが顔を隠すように俯きぎみに歩く理由も、納得がいく。
アリババは誰かに、奴隷として仕えている。
結論は簡単に導き出されたが、ここに至るまでの過程が分からない。何故、アリババが隷属しているのか。
「……久し振り、だな」
賑わいがやや遠くなった所でアリババは立ち止まるとカシムの手を離した。
振り向いたアリババの首には、武骨な首輪が存在を主張している。
アリババが何者かの所有物であるという、その証。
カシムの視線を追うように、アリババの指が首輪の表面をすい、となぞった。
「お前、それ」
「うん、そうだよ。俺今、飼われてるんだ」
皆まで言わずともカシムの言いたいことなど分かったのだろう。
アリババは一つ頷き、何でもない事のような口調で、そう言った。
飼われている、と。
悔しがるでも言い澱むでもなく、ただ淡々と。
まるで感情を感じさせない平坦な声に驚きアリババの表情を窺えば、声音同様にその顔にはどんな色も乗せられていなかった。
それでいて眼差しばかりはいっそこちらが怯むほどまっすぐに、カシムへと注がれている。
「二年前、さ」
二の句が告げずにいたカシムに、アリババが僅かに首を傾げながら話し始めた。
カシムたちが宝物庫を襲撃したその後に、逃げるようにバルバッドを離れたこと。
スラムで生まれ育ち、王宮に引き取られてからも自由に外に出るなど叶わなかったアリババが外に伝手などあるわけもない。
行く宛てもなく、まして行きたい場所などもなく。当て所なく彷徨っていた、その矢先。
「夜盗っつーか、盗賊かな? まあ、そういう奴らに出くわしてさ」
それまでに叩き込まれていた王宮剣術で、善戦はした、ように思う。
だが多勢に無勢の上、その時のアリババは身の置き所もなく精神的にひどく不安定だった。迷いは剣の腕を鈍らせる。
最終的に捕らえられたアリババは、奴隷商人に売り渡された。
アリババの見目は悪くはない。好みにもよるだろうが、明るい金の髪と、母親似の優しげで甘い風貌はどことなく庇護欲をかき立てる。
更にその容貌からは想像もつかぬ程の剣の腕は、アリババの値段を吊り上げる要素の一つになった。
自分を競りにかけた男の口上を思い返し、少し笑う。それは、苦笑とも自嘲ともつかぬものであったけれど。
「市で俺を買ったのが……今の主人、てだけの話だよ。単純だろ?」
アリババはそれとなく言葉を濁してはいたが、何の為に買われたのかなどすぐに分かった。カシムとて伊達にスラムで生きて来たわけではない。
未だ成長期を迎えていないのだろうアリババの体躯は輪郭が男とも女ともつかず曖昧で、今のように髪を伸ばしてどこか伏し目がちに佇んでいる様は見る者の心を落ち着かなくさせるものがあった。
首元で存在を主張する武骨な首輪、長い髪、本人は意識しているのかいないのか分からないが、ふとした仕草に漂う何とも言えない色が示すもの。
アリババは十中八九、性奴隷として扱われているのだろう。
「……逃げねえのか、お前」
「逃げられないよ」
「お前っ……」
「そういうもんだから、奴隷って」
今こうして一人で出歩いているという事は、これまでにも何度か使いに出されているのだろう。
四六時中監視されているわけではないのだから、何故それを好機と逃げ出さないのか。
隷属している証の首輪だって、取ろうと思えば後から幾らでも方法は見つけられる筈なのに。
言い募ろうとした言葉が失われたのは、アリババの表情を見たからだ。
アリババは、微かに笑みを浮かべていた。その瞳に浮かんでいるのは今までに見たことがない程に、昏い色だった。
見た瞬間、悟る。アリババを心身ともに縛っているのは、諦念だ。
絶望でも怒りでも憎しみでもない。アリババは、何もかもを諦めている。
自由も、希望も、明日も、全てを。それが当たり前で、最善であると、そう教え込まれている。
アリババが隷属してどれ程の長さなのかは分からない。だが、生きる気概までをも殺がれるような毎日だったというのだろうか。
けれどそれを問い質すような真似はしない。出来るはずもない。思い出したくもない記憶であると分かっていて口にするほど、カシムは愚か者ではなかった。
背筋が寒くなる。奴隷という存在がある事は知っていた。そう多くはないが、市などで余所から来た人間が連れているのを見かけたこともある。
だが人が人に飼われる、その醜悪さまでは理解していなかった。
スラムは貧しくはあったけれど、人としての尊厳までを踏み躙るような場所ではなかったからだ。
「アリババ、お前……」
「それよりさ、会えて良かったよ。会えるといいなとは思ってたけど、探しに行くまでの時間は取れそうもなかったし」
カシムの言葉を遮り、元気そうで安心した、そう呟くようにアリババは言う。
その顔にはどこか寂しげにも見える笑みが浮かんでいて、カシムは思わず言葉を返せなかった。
諦めと寂寥が入り混じったような笑顔など、今まで見たことがなかった。まるで、見知らぬ誰かを目の前にしているかのような錯覚に陥る。
「俺、そろそろ行くな。遅くなると怒られるから」
アリババはそう告げると、カシムの言葉を待たずに踵を返した。
長く伸ばされた髪が、ふわりと揺れる。背中まで伸びた髪を目にした時、心臓が嫌な具合に音を立てた。
脳裏を過ぎった面影は、アリババの母だ。カシムとマリアムを引き取ってからは、三人の母となった人。カシムの中に在る、数少ない暖かな思い出の一つ。
何故今になって思い出したのかと僅かながらも動揺し、気付く。色は違えど、彼女はちょうど今のアリババと同じくらいの髪の長さをしていたのだと。
皮肉にもと言うべきかそれとも巡り合わせか、アリババが置かれているであろう情婦という立場もまた彼女と似通っている。相手をするのは一人とは言え、奴隷と言う立場を考えるとアリババの方が状況は劣悪なのだろうが。
アリババの背を見送るのは、これが初めてじゃない。スラムから去っていく時もそうだし、王宮から抜け出してきたというアリババと飲んだ後もそうだ。
カシムはいつだって、アリババの背を見送ってきた。まるでそうする事こそが役割であるかのように。それが王族とスラムの出の差だ、そう思ってきた。
だが、今はどうだ。
アリババが戻るのは、自身を「飼っている」主人の元へだと言う。首輪で繋がれ、支配されている現状をただ当たり前のことなのだ、と。
戻ってどうする。主人に組み敷かれ啼きでもするのか。
自由も尊厳も奪われ、何故抗わない。蹲ったまま泣き寝入りする事が、正しいとでも思っているのか。
瞬間カシムの内側で膨れ上がった激情が何に起因していたものかは、正直な所よく分からなかった。
アリババが誰かに隷属しているという事実へか、自由の効かない立場を自分たちスラムの人間と重ね合わせたからか。
どちらも正しいような気もしたし、どちらも違うような気もした。
分からないまま、けれどカシムは腕を伸ばしていた。
立ち去ろうとしていたアリババの肩を掴む。
「カシム……? 俺、帰らないと」
「逃げりゃいいじゃねえか」
アリババの言葉を遮って告げると、その瞳が揺れた。不安そうにも、哀しそうにも見えるような曖昧な色を浮かべて。
掴んだ肩は薄い。放せばそのまま消えてしまいそうで、カシムは指先に力を込めた。
「出来ないって、さっきも」
「ここがどこだか忘れたのかよ」
「どこって……」
「バルバッドだ。お前が生きて来た土地だろ。俺にだって庭みたいなもんだ、お前一人匿うぐらいどうってこたねえよ」
この様子だとアリババの耳には霧の団の話は届いていないのだろう。
だがアリババが知っていようといまいと、どちらでも構わない。
事実地の利はカシムにあるし、霧の団の部下たちだっている。
手元にある兵力を考えれば、余程の軍隊でも連れてこられない限り負けようはずがなかった。
「俺と来いよ、アリババ」
拘束する鎖など、断ち切ってやる。
カシムの言葉に、アリババが驚いたのか目を丸くした。
その瞳に宿った感情を理解するよりも早く、カシムはアリババに肩を押され突き放されていた。
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