[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
みちびく、てのひら
「あ……?」
目の前で散った赤に、オルバは一瞬何が起こったのか分からなかった。
左手に握ったナイフは、過たず仇である男の心臓を狙った。そのはずだった。
だが今オルバの手にしたナイフが貫いているのは、恩人の……アリババの肩だったのだ。
一拍置いて、誰かの悲鳴が場の空気を震わせた。
止まっていたかのように思われる時間が動き出すのと同時に、何が起きたのかを理解する。
アリババはオルバの行為を止めようとしたのだろう。だが間に合わなかったからかそれとも反射的にか、オルバと仇との間に身を滑らせたのだ。
「オルバ」
呼ばれる。
それは、ひどく静かな声だった。
目前にあるアリババの眼差しもまた、怒るでもなくただオルバに注がれているだけで。
いっそ咎められ叱責される方が余程楽な気がした。
「……オルバ」
「あ……」
再度呼ばれ、ナイフを握っていた手に、ひたりと手が乗せられた。
視線を向け、竦むように体が震える。
オルバの手は、ナイフを伝って滴り落ちたアリババの血で赤く染まっていた。その手に触れたアリババの手もまた、赤に濡れている。
汚してしまった、そう思うと同時に手から力が抜ける。
支えをなくしたナイフは乾いた音を立てて地に落ちた。
アリババの手が、オルバの手を強く握ってくる。
「騒がせてすまない、白龍。少し、時間をもらってもいいか?」
「俺は構いませんが……アリババ殿、お怪我の方は」
「平気だ。責任とってちゃんと手当てしてもらうから」
な、とオルバに向けて言いながらアリババが笑う。
どくどくと流れる血の量は、決して平気な筈がないのに。
相手を殺すつもりで振るった刃だ、軽い傷のわけがない。抉られた肩は、相応の痛みを伴っているだろう。
なのに、アリババは苦痛を見せない。
それがオルバの為なのか、それとも相手の為なのか、もっと別の理由があるのかはオルバには分からなかった。
アリババの肩を貫いた時の感触が生々しく手のひらに残っているようで、何も考えられなかった。
言葉を返せないオルバに、アリババはそれ以上なにを言い募るでもなく。
手を引かれて歩き出され、ただそれに従う他なかった。
アリババの指の暖かさだけが、やけにハッキリと伝わってきていた。
アリババは心配する周囲に対し、オルバと二人きりにするようにとだけ告げた。
これにはオルバも驚き、せめて傷を医者に診せるべきだと言ったのだが、アリババはお前がやってくれるだろ、と言うだけだった。
涼しい顔で言い切られてしまえば、オルバもそれ以上押し問答を続ける事は出来ずに。
威圧的でも高圧的でもないのに、アリババは時として周囲の誰も止められない程の強引さを発揮したりする。思い返せばアクティアでオルバたちの身柄を引き取った時もそうだったし、それこそがアリババの持ち味であり手札なのかもしれないとさえ思う。
「……終わった、けど」
「うん、おつかれ……って固定し過ぎじゃねえ、これ」
「動かすと、痛むと思う」
「そうかもしれないけどさ……」
傷は決して浅くはなかったが、縫合が必要な程でもなかった。おそらくはアリババが上手く反らしたのだろう。
手当をしている間オルバは手が震えるのを押さえきれずにいたのだが、アリババは何も言ってこなかった。指摘されてもおそらく何も答えられなかったであろう事を考えると、アリババの判断は正しい。
アリババが包帯でがちがちに固められた肩を見ながら、しばらく剣が握れないな、と小さく呟いたのを聞き、オルバは黙って俯くしかなかった。
オルバは左手でナイフを扱っていた為、対面したアリババは右肩を穿たれていた。アリババは右利きである為、剣は勿論のこと生活するのにも暫くは苦労するであろう事は目に見えている。
今までなら、俺が働いてやるから心配すんな、ぐらいは言えていたのに。
守るべき相手を傷つけたという事実は、オルバの心をひどく磨耗させていた。
「オルバ。……何か、言うことは?」
「……ごめん、なさい」
頭を下げながら、謝罪する。
オルバはあの男を殺すつもりだったのだから、アリババの怪我がこの程度で済んだのは奇跡に近い。
腕が落ちていたか、最悪命がなかった可能性だってあったのだ。もしアリババの命を奪っていたら、と想像するだけで肝が冷える。
もしアリババを落命させていたら、そのまま同じ刃で自分の心臓を貫いていただろう。まるで出来の悪い心中のようで、笑えもしない。
だが今は何より、アリババに失望される事が恐ろしかった。
やっとアリババの傍らに在れるようになったのに。彼の力になり、盾になり、役に立てると思ったのに。
オルバの同行を許してくれた、その同じ声で弟妹たちの元へ帰れと、そう言われたら。
信用出来ない、傍には置いておけない、そんな事をアリババの口から聞かされたら、どうにかなってしまうのではなかろうか。
想像しただけで震えが立ち上って来る。
頭を下げたままで動けずにいたオルバに、アリババが小さく息を吐く音が聞こえた。
何てことないただの息継ぎにさえ、心臓が跳ねる。
「お前、さ。白龍を……殺す、つもりだったのか」
殺す、という単語を口にする際、アリババは明らかに言い淀んでいた。
白龍が殺される場面を想像したからか、オルバが誰かを殺す所を考えたからなのか、どちらが理由かは分からない。
おそらくは両方なのではないだろうかと思う。アリババはそういう性格だ。
アリババの問いに、改めて考える。自分はあの男を殺すつもりだったのか、と。
本気でその命を消したいと願うのなら、こんな衆目につきやすい場所ではない方が余程確実だ。
殺したかったのか、と言われればそれには頷く。世間的には悪党であろうとあの頃のオルバたち孤児を救ってくれた母への恩は確かに本物だった。その存在を目の前で惨殺した白龍の事は憎い。それが偽らざる本音だ。
だが、先刻斬りかかった瞬間に明確な殺意を抱いていたのか、と言われれば正直な所よく分からなかった。
目の前に仇がいて、頭が真っ白になった。とにかく思い知らせてやる、ぐらいにしか思っていなかったような気がする。
「よ、く……分からない」
「……だよな」
アリババの言葉に、下げていた頭を上げる。
その声の調子が、拍子抜けするほどにいつも通りのアリババだったので驚いたのだ。
声もないままアリババを見つめていると、苦笑しながら斬られた肩を指し示して。
「お前が本気で斬ろうとしてたら、俺の腕は今くっついてなかっただろ」
「それは……上手く逸らしたんだろ?」
「逸らしはしたけど、そこまで余裕なかったからな。勢い殺しただけだ」
お前ホントに強くなったよなあ、なんて呑気な口調で言うアリババと対照的に、オルバの気持ちは下降の一途を辿っていた。
力を得たのは、アリババの役に立ちたかったからだ。決してアリババを傷つける為ではない。
「なあオルバ」
ちょっとこっち来い、と手招かれる。
招かれるままアリババの目の前まで行くと、指先で屈むようにと指示された。
逆らうことなど考えられずに、素直に膝を着く。
「っ、え……?」
声が漏れたのは、アリババに抱きしめられたからだ。
怪我で右腕が動かせないからだろう、左腕でオルバの頭を抱え込むような体勢で。
額がアリババの肩に当たる。近すぎる距離に慌て、しかしすぐにアリババの怪我を思い出し動きを止めた。
思っていたより軽かったとは言え、派手に出血していた刀傷が痛まないわけがない。今だって、痛みは止んでいないはずだ。
「あ……アリババ……?」
「なあ、オルバ。お前が今俺の怪我を気遣ってくれたみたいに、怪我させた事を後悔してくれたみたいに、白龍の事を大事に思って心配する奴だっているんだよ。それは分かるか?」
「……一応」
「うん。でもな、お前がアクティアの一件で白龍を好きになれないっていうのを否定する気もないんだ」
頭を抱えている手が、くしゃりとオルバの髪を撫でた。
このひとは何を言い出すんだろう。
あの白龍という男はオルバにとっては憎い仇だ。
だがアリババにとっては違う。友人であり仲間であるからこそ、身を呈してでも庇ったのではないか。
なのに、オルバが白龍を憎むことを否定しない、なんて。
意味が分からずにそろりと顔を上げる。常にない程に近い位置にアリババの顔があって心臓が跳ねた。
アリババの眼差しは穏やかだった。怒るでも哀しむでもない、いつもと変わらない色。
目が合うと、にこりと笑いかけられた。
「俺とお前は違う人間だ。俺が白龍を憎むなって言ったって、心を縛る事は出来ないよ。そうだろ?」
「……俺、は……命令、されれば」
「それじゃ駄目なんだよ。人は自分の足で立って、頭で考えて、自由でいなきゃ。俺たちが目指しているのはそういう所だ。言ったよな」
「……知ってる」
理想だ綺麗事だと言われて尚、アリババが尽力しているのをオルバは知っている。
アリババの目指す所を、その信念を知ったからこそ彼の役に立ちたいと思った。
この身を救われた義理を返す、それだけではなくこの人の力になり支えていきたいと考えるようになった。
アリババに命じられたら、きっとどんな無理なことだって出来るような気がするのに。
それでは駄目なのだと、笑いながらアリババは言う。
「でもな、自由って責任を伴うんだ。自分の選んだ行動には、自分で責任とらなきゃいけない」
「責任……」
「うん。俺は、お前が考えて決めた事なら否定しない。だけど、お前の行動が俺と相対するものだったら、その時はぶつかる事になるな」
「! 俺は……」
「お前がもし白龍を討ったら、今度は白龍を大切に思う誰かからお前が恨まれる。それは分かるよな」
「……分かる」
気に食わない話ではあるが、それは分からないでもないのだ。
分かっていて尚、オルバは自分の心を優先した。白龍に復讐したい、惨殺された母の為に一矢報いたい、その想いのままに刃を握り斬りかかった。
結果的にオルバの特攻はアリババに阻止されて終わったのだけれど。
アリババは黙り込んだオルバの髪を、そっと撫で続けている。
もうそんな風にして宥められるような年齢ではないのに、そう思うけれど振り払えない。アリババの手のひらは、いつだってオルバの心を柔らかく受け止めて、まっすぐにする。
「俺は、お前が誰かに恨まれるのは嫌だよ。だから止める。白龍が友達だから止める。俺はお前を止めないけど、止めるよ」
矛盾した言葉だ。だが言いたい事は伝わってきた。
あんたは、なんで、どうして、いつだって。
様々な感情が胸の内に溢れ返って、言葉が出ない。
たまらなくなって、オルバはアリババの背に腕を回した。額をアリババの胸元に押し付ける。
ややあってから背中を抱き返されて、ますます胸が詰まった。
アリババの腕は、その体温はひどく暖かい。そのぬくもりは、オルバの心の柔らかな場所を容赦なく刺激する。
泣きたくなるのを耐えて、目を伏せる。
「俺はお前を否定しないよ、オルバ。お前の生き様も考えも、否定しない。その結果でぶつかり合うなら、手加減もしない」
対等でいたいから止めない。
突き放すような物言いに、少しだけ笑う。
なんであんたはそういう言い方、するのかな。
背負わなくても生きていけるものを背負って、時に傷だらけになって。
アリババに言わせればきっと、背負うと決めた事すら自由に生きるうちの一つだ、とでも口にするのだろう。
オルバの肩から力が抜けたのが分かったのだろう、アリババの指がとん、と背中を叩いた。
「……オルバ?」
「それ、止めるって言わねえと思う」
「じゃあ、何て言うんだ?」
本気で分かっていないのだろうか。
少し呆れたけれど、アリババがこういう時に嘘を吐けないのは知っている。
交渉中は驚く程に頭も口もよく回るのに、時折わざとなのかと疑いたくなる程に鈍い。
まっすぐで、でもどこか抜けてもいて、だからこそアリババの人柄に惹かれる人間が多いのだろう。
アクティアの港で命を掬われたあの時から、オルバだってそうだ。
俺はこのひとにすくわれた。だから俺は、このひとを。このひと、に。
音もなく唇を動かす。
空気を揺らさない言葉は、当然のことながらアリババの耳に届く筈もなく。
だけど、それでいいと思った。
今はまだ、告げる時ではない。
いつか音にして、真正面から届けられる日が来るだろうか。来るといい。
……違う。いつか、言ってみせる。
アリババの言葉を借りるなら、オルバはそれを「選ぶ」のだ。
「受け止める、って言うんだと俺は思うけど」
俺の手を受け止めて導いてくれるのは、いつだってあんたの手のひらだ。
そう言ったら、笑ってくれるだろうか。