白亜の標は彼の人がため 久方ぶりに訪れた誰かと共に過ごす時間は、アリババの胸中にゆっくりと染み渡って行くようだった。
マスルールは基本的に寡黙な性質だから、必然的に言葉の量はアリババの方が多くなる。
しかし知り合った当初からそうだったので、今更気になったりはしない。
むしろマスルールとの会話に慣れているアリババにとっては、限られた言葉の中から如何に自身の知りたい情報に辿り着くかを探る行為が楽しかった。
アリババが旅立ってからどうなったのか、ここまで来るまでに何を見たのか、そしてまたアリババがここに来るまでにどんな道筋を通り何を見て何を考えたのか、一通り話し終える頃にはとっくに日は落ち夜の帳が辺りを包み込んでいた。
二人ほぼ同時に胃袋が空腹を訴え、慌てて夕飯の支度をした。
豪勢な食卓とまでは決して言えなかったが、誰かと食事をするという行為自体が久し振りでそれだけでも浮足立つような気分になってしまう。
一人で旅をすると決めてから今日まで、自身の選択を後悔した事はなかった。今も悔いてはいない。
だが、気付かされてしまった。心の奥底の方で、一人は寂しいと思っていたのだという事実に。
マスルールが聞いてきたのは、夕食を終えて一息ついていた時だ。
「この島を……いや、この小屋を選んで住んでるのは、どうしてだ」
最初は、この土地に住もうと思っていたわけでは決してなかった。
ここに来る前に立ち寄った街で、静かに過ごせる場所を探していると言ったら教えられたのだ。
何もないから若い人にはつまらんかもしれないけど、と前置きをされて逆に興味を引いた。
島は言われた通り確かに大きくはなかった。
名所もないし、特産品があるわけでもない。
だが、ここで暮らす人々は至極満足そうに過ごしていた。
島の暮らしは穏やかだ。
劇的な変化も危険も刺激もないけれど、ただ静かに安寧とした時間が流れる。
激動の中に身を置いていたアリババにとっては、そんな日々は何よりも得がたいものだった。
外界との関わりはあまりないが、島民は閉鎖的という事もなく、余所者であるアリババがここに居を構えたいと言い出しても平然と受け容れてくれた。
マスルールの言葉に、この島を訪れた日の事を思い出す。
「この小屋、港から見えるんですよ」
アリババがこの島に訪れた頃は今よりもっと空気が冷たくて。
今は小屋を覆うように木々の葉が茂っているが、その時は港からもっとハッキリとこの小屋が窺えたのだ。
白い小さな小屋は、標のようにも、反対に道に迷い途方に暮れる迷い子のようにも見えた。
この島で暫く過ごすと決めた時に迷いなくここを選んだのは、最初に見かけた光景がいつまでも脳裏に焼き付いていたからだろう。
今は誰もこの小屋を使っていないというのも、アリババの背を押した。
手を差し伸べるように、或いは縋るようにこの小屋に住むと決めていた。
使われなくなった小屋は埃が積もり、外壁も元は何色だったのか分からない程に白くなっていたから、実際住み出してから暫くは色々大変だったりもしたけれど。
手を入れた所為もあってか、今では愛着もあった。流石にここが俺の城です、と言い切る事は些か恥ずかしいけれど。
「それが理由じゃ、足りませんか」
ここを住まいに選んだ時、アリババの中に明確な理由はなかった。少なくとも決めた瞬間には深い考えなどなかったのだ。
けれど、自身でも関与できないほどの奥深くで、償いと弔いの気持ちが全くなかったとは言い切れない。
寒さが遠のき暖かな気候が続くようになるにつれて、周囲に段々と花が増えて行ったのは流石にやり過ぎのようにも思えたけれど、引き抜く気にもならずそのままにしていたのも悪かったのかもしれない。
鮮やかな色に囲まれた小屋は、ますます墓標のような有様になってしまったからだ。
アリババ自身はそう気にすることはなかったし、アリババの過去を知らない島の住人も言及してくることはなかった。
だがマスルールは違う。少なからずどころか、結構な割合でアリババの辿った道筋を知っている。
自惚れでなければ、マスルールはアリババを案じてくれているのだろう。
「……分かった」
「大した理由なんかありません。本当ですよ?」
償いだけを理由に日々を過ごせる程に老成しているわけでも達観しているわけでもない。
咲き誇る花は目を楽しませるに充分過ぎる程だったし、永住する気がなかったから小屋の壁もそのままにしていただけだ。
だから、心配するような事など何もない。
マスルールは暫く黙ったままアリババと視線を合わせていたが、やがて頷いた。
「俺は、お前を見つけられたから……それでいい」
ぽつりと呟かれた、その言葉が。
胸の内側、深く深くに沈んでいく、その音を聞いた気がした。
アリババ自身でさえ覗き込めないような深淵にまで、遠く。
心の奥に入り込まれる感覚は、しかし不思議なほどに不快感を齎さなかった。
相手がマスルールだからだ。偽りのない言葉は清流のように押し寄せ、アリババの心をいとも簡単に解き放った。
見つけて、ほしかった。
誰にかは分からない。
彼だったかもしれないし、別の誰かかもしれない。
かくれんぼをする子供のように、小さく身を屈めて、息を潜めて。
港からも、きっと空からでさえも目立つであろう、白い壁の小屋に住んだのは。その理由は、多分。
「見つかっちゃいました、ね……」
笑って言う。
だが、マスルールは驚いたように軽く目を瞠った。
どうしてそんな顔するんですか、と問うよりも早く、マスルールの指が眦に触れる。
そうされて初めて、自分が泣いている事に気付いた。
泣くつもりなんて欠片もなかったのに。
泣いていると分かると、目の奥が引き絞られるように熱くなる。
思わずぎゅっと目を伏せれば、マスルールの手が頬を包み込むように触れてきた。
「見つけて、良かったか」
少しだけ逡巡するような調子で問われた。
涙の所為で今声を出す事は出来ないと思ったから、こくりと頷く。
言葉にしない代わりに手を差し出せば、引き寄せられ抱き締められた。
初めて顔を合わせた頃に比べて多少背は伸びたけれど、体格差は結局ほとんど縮まらないままだった。
簡単に抱き込まれてしまうのは少し悔しくて、それ以上に安心感にも似た気持ちを抱く。
見つけてくれたのがこの人で良かった、改めてそう思う。
この地を訪れたのが誰であろうと自分は歓迎しただろうけれど、こんな気持ちはマスルール以外では抱かなかったに違いない。
正直言うと、マスルールが守り慕う全てを置いてここまで来たという事実は未だに現実感を伴わなかった。
それほどまでにあの人もあの国も、彼にとっては絶対であり公私ともに影響を及ぼしているものだったからだ。
抱きしめられ、その背中に腕を回して、尚実感が湧かない。
もしこれが夢ならいっそ覚めないままでいればいい、とさえ考えてしまう。
見つけられたがっていたくせに手を伸ばすのを躊躇うなんて、自分でも面倒な性格だと思う。
赦されるだろうか。
会いたかった。触れたかった。
そう、告げても。
自身でさえ持て余し気味のこの心を預けても、彼は許してくれるだろうか。
「マスルールさん……俺を、見つけてくれて、ありがとうございます」
一緒にいたい、と。
傍にいてくれますか、と。
そう口にするまでには至らなかった。
人との距離に必要以上に慎重になってしまうのは、最早性分だ。ここに来るまでは、それこそ月並みな言い方に過ぎるけれど、筆舌に尽くしがたい程に様々な出来事があったから。
それでも、今言える精一杯を、正直な気持ちを言葉に乗せた。
マスルールからの返事は、頭頂部に落とされた口づけで。
言葉少なな彼らしい、想いのこもった返答にただ胸の内が暖かくなる。
このひとの傍は安心する。
おかげで子供のような醜態もしばしば見せているような気がするけれど、マスルールはいちいち言及して来ない。
甘えていると言われればそれまでだけれど、止まらない涙を言い訳にして今だけはもう少し寄り添っていたい。
ゆるゆると力を抜いたアリババの背を、マスルールの大きな手が支え撫でる。
大切だと思う人のぬくもりは、こんなにも心を慰める。
このまま目覚めない眠りに落ちてもいっそ本望だ、と。
そう思ってしまった事は、アリババが墓まで持っていく秘密の一つだ。
END
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