[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
保身の為に人を手に掛けた。そうしなければ自分が死んでいたのだと言い聞かせようと試みても無駄だった。
人を刺し貫いた瞬間の感覚が、その時に手にこびりついた血の色とぬめりがいつまでも手に残っているようで。記憶は幾度となく悪夢となりアリババを苛み、いつまでも付き纏った。
虚ろなまま始まった奴隷の日々は、自責と後悔の念に絡め取られているアリババの心をいとも簡単に打ち砕いた。
自分が一体何者なのかも分からなくなり、半ば半狂乱のまま逃亡を試みたこともある。無論計画性もない稚拙な逃亡劇など成功するわけもなく、連れ戻される度に酷く痛めつけられた。
最初のうちはアリババの逃亡を余裕の体で楽しんですらいた主人だったのだが、我慢の限界だったのかそれともたまたま機嫌が悪かったのか、或いはそのどちらもか。理由は分からないが幾度目かの脱走の後、激昂した主人の手で背中に烙印を押された。
皮膚が焼け焦げる匂いと神経を灼き切るような痛みは、今でもアリババの記憶にハッキリと残されている。
だが何よりもアリババを苛んだのは、まるで家畜か物にそうするように消せない痕が背中に刻まれたという事実の方だった。
この痕は一生消えないぞ、お前はもうお前自身の所有物ですらないんだ、と。
痛む背中が何よりも雄弁に訴えてきて、その時からアリババは心を凍り付かせるようになった。
自身の身に降りかかる諸々を、まるで他人事のように見据えるようになった。
笑うことも泣くこともやめ、自由に生きることも逃げ出す事も全てを諦め、それでも尚日々は巡り続いていく。
いずれ朽ち果てこの身が滅ぶまで、穿たれた楔は決して消えることはない。
一度そう決意してしまえば嘲笑されようと嬲られようといたぶられようと、大して気にならなくなった。
ただ主人の命令に忠実に頷き従うだけの日々。そこには過去も未来もない。
目に映る全てのものから温度が消え、色が失われ、アリババは自分の意思で考えることをやめた。
息をしているだけの、まるで人形のような。
たとえ「生き」ていなくても、世界は廻るのだと知った。
そう悟った時に、アリババはおそらく絶望したのだ。
生きる意味がなくても回る世界なら、意思なんていらない。俺の手には、もう何もない。
血塗られた手でそれでも握っていた心を手放したその瞬間に、おそらく「アリババ」は死んだのだ。
◆
逃げればいい。
いとも簡単なことのように口にするカシムが、眩しかった。
解放されたいと渇望し続けながら、それでも逃げるという選択肢を選び取れない程に疲弊した心には、容易くその言葉を紡げる事だけでも羨ましかった。
否応にも目の前に突き付けられる。
今の自分は、カシムとは違う場所に立っているのだと。
彼のように自由に生きていられたのは、一体いつの話だっただろう。
随分と昔の、遠い日々のことのようで目眩がしそうだった。
カシムは知らない。
奴隷に身を窶した人間に、自身の意思など存在しない事を。
何もかもを奪われ剥ぎ取られ、ただただ一日がなるべく穏便に行き過ぎるように祈るばかりが精一杯なのだと。
首元で蟠る首輪が、何故か酷く重く感じられた。いつもしている物と同じ筈なのに。
凍て付かせたはずの心が、軋む音がする。
アリババにとってのカシムは、暖かな日々の象徴なのだと今更ながらに思い知った。
スラムでの暮らしは決して楽なものではなかったけれど。そこには、自由があった。友人がいて、家族がいた。
今がどれだけ最低でも、記憶の中にある思い出までは何者にも手出しが出来ない。
戻れない日々はアリババの心を慰めもしたし、時に気が狂いそうな程に打ちのめしもした。
早くこの場を去りたい。
このまま何もなかったようにカシムといられれば。
相反する想いがぐるぐると渦巻き、アリババを途惑わせる。
それでも必死に耐えていたアリババの感情を決壊させたのは、カシムの一言だった。
「俺と来いよ、アリババ」
その言葉を聞いた瞬間、目の前が真っ白になったような気がした。
溢れた感情が何だったのかは、自分でも分からない。
待ち望んだ言葉に歓喜したのでも、何も知らないカシムへの怒りでも、どちらでもなかった。
叫び出さなかったのは、どうにかこうにか抑え込んだからだ。
それでも衝動的にアリババの腕は、カシムの肩を突き放していたのだけれど。
呼気が乱れる。
感情を表に出すのが久し振りの所為か、頭が痛かった。
どうして。
なんで、今、そんな事を。
縋りたくなるような、そんな言葉を、くれるんだ。
俺はもう、違うのに。俺は。
「……アリババ?」
呼ぶなよ。そんな声で。
何も変わってないみたいな、まるであの日の続きみたいな、そんな風に。
気分を落ち着かせようと、カシムから視線を剥がし足元を見つめる。視界がぐらぐらと揺れているような気がした。
違う。
目の奥が引き絞られるように痛んで、ようやく泣いている事に気付いた。
感情に任せて涙を流すなんて、一体いつぶりだろうか。
苦笑し、ふるりと首を振る。
「そんな事、出来るわけ、ないだろ……」
「……出来るさ、簡単なことだ」
「出来ないよ」
「っ、アリババ!」
鋭い声が飛んだ。
顔を見なくても、非難混じりの声で分かる。カシムは否定を続けるアリババに苛立っているのだろう。
奴隷ではない者には、奴隷の人生も価値観も思考も分からない。
発言は愚か考えることすら許されない、そんな生き様があるなんてアリババだってこうなるまで知らなかった。
呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな!
耳を塞ぎたい。
逃げ出したい。
限界だった。
「出来ないつってんだろ! もう放っておいてくれよ! なんで分かんねえんだよ?!」
喉の奥から迸るように、声が出た。叫んだというよりも悲鳴のような声だった。
自分の声の筈なのにまるで他人のもののように聞こえて、ああ俺はそこまで壊れたか、と頭のどこかが冷静に呟いた。
アリババが泣いている事に気付いたからか、それともその声に気圧されたのか、カシムが虚を突かれたような表情をしていた。
スラムで共に過ごしていた頃なら。
ビックリしてやんの、とでも言って得意げに笑っていた所だろう。
今はもう、そんな言葉を告げる事も、笑う事も出来ないけれど。
「俺はもう……やめたんだよ。期待なんてするから、傷つくんだ。何もしなきゃ、絶望することだってない」
一転して静かな声で言葉を紡ぐ。
カシムはそんなアリババに対して何を思っているのか、沈黙したままだ。
失望されただろうか。そうされても仕方ないほどに、今のアリババはあの頃と変わってしまった。
自覚はしていたし、カシムの手を振り払ったのは自分の意思だ。
けれど、カシムに否定されるのは息が出来なくなる程に苦しかった。
手放した筈の心の欠片が、痛む。まだ「アリババ」は生きているのだ、と。そう言わんばかりに。
カシムの言葉に頷けば、伸ばされたその手を取れば、あの頃に戻れるのだと。
そう勘違いしてしまいそうな程に。
だけど、俺はもう。
「お前だってさあ……分かってんだろ」
喉の奥がひりつくように痛んだ。
渇いているのだ、と一拍遅れて気付く。
足りないのは水じゃない。何に渇望しているかなど分かり過ぎる程に分かっているのに、今のアリババはそれを選ぶことすら許されない。
手のひらの中にほんの一欠片だけ残された心を握りつぶすように、唇は残酷な言葉を選んでいた。
その酷薄さが、アリババにとってか、それともカシムにとってだったのかは分からなかった。
傷つくのだと分かっていながら、これ以上勘違いしないように言わなければならない。
「……何を」
「今の俺とお前が、違うんだってことぐらい」
「……違う……?」
「そうだよ。俺はもう、俺のものでさえない。俺は、お前の隣には立てないんだ」
声が震えないように細心の注意を払いながら、カシムにではなく自分に言い聞かせるように、ゆっくりと話した。
カシムはどこか呆然としているようで、アリババの言葉がどこまで理解出来ているのかは分からなかった。
伝わるだろうか。分かってもらえるだろうか。
今の俺はあの頃とは違う。
俺とお前は違う。
意を決して口にした筈の言葉は、それでもやはり痛くて。アリババは見えない刃がなけなしの心を容赦なく傷つけるのを感じざるを得なかった。
目の奥が痛い。
アリババは震える手で、涙を拭った。
「だから、一緒には行けないよ」
ごめんと言う代わりに、笑う。
上手く笑えたかどうかは分からない。
アリババの表情を目にしたカシムが、痛みに耐えるかのように眉を寄せるのが見えた。
ごめん、カシム。そんな顔させたいわけじゃ、ないのに。
「どうして、会っちまったんだろうな」
別れを告げる為の再会なんて、哀しすぎる。寂しすぎる。
それでも、心のどこかで会えて嬉しいと感じているのも事実だった。
凍らせていたはずの感情が溢れてきて、苦しい。
「俺は……今の俺のこと、見られたくなんてなかったよ」
あ、失敗した。
声が震えて、仮面を被り続ける事が出来なかったと気付く。
奴隷生活の中で、自身の感情を波立たせずに生きる術は身に着けたと思っていたのだけれど。
どうやら、甘かったらしい。
俺の感情を呼び起こすのは、いつだってお前なんだ。
強くて、だけど誰より優しいカシム。
俺の世界は、お前がいたから輝いてた。
過去形じゃない、今だってきっと、そうだ。
告げたりはしないけど、俺にとっては、お前が光だ。
だから、だから……なあ、カシム。
「……本当は、会いたくなんてなかった」
お前に、一つだけ。
嘘をつくことを、許してほしい。
泣き顔が隠せていないのは今更だ。
幼い頃に散々見られていたのだから、カシムも泣いているくらいでは驚きはしないだろう。
だから、敢えて涙をそのままに視線だけはまっすぐにカシムに向けた。
この言葉が嘘ではないと、そう教えるように。
「お前の知ってるアリババは、死んだよ。俺はただの奴隷だから。だから……」
そこまで口にして言葉を切った。
決意していたけれど、やはりその言葉を声に出すには躊躇いがある。
相手がカシムだから、尚の事だ。
声も、身体も、震えることのないように。
静かに覚悟し、未練を断ち切るかのように一度目を伏せる。
迷うな、と自身を叱咤した。
すうと息を吸い、瞼を持ち上げる。
「さよなら」
お前に、生きてほしいから。
俺を忘れても、恨んでもいいから。だから。
自由に生きていてほしいから、嘘を。
塞がれた喉は渇き、飢え、声を上げることすら儘ならない。
冷えて凍てついた心を抱えてそれでも今まで生きてきた意味があるというなら。
今日この日の再会が、その意味だと言うのなら。
自由に生きろと、カシムにそう告げる為だったのだと。そう思いたい。
もうとうに痛まなくなっているはずの背中の烙印が、ひりつくように痛みを訴えていた。
遅まきながら、痛いのは背中ではなく心なのだと気付かされる。
この痛みが俺を殺してくれたら、その時は。
俺は、自由になれるだろうか。
その日が来たら、俺の心はお前に帰れるかな。
なあ、カシム。
END
4で終わったはずだったんですが…
何かあまりにカシムが可哀相だと自分でも思ったのでアリババ視点降りて来たから書いてみた。
ら、どっちも行き詰っているじゃねえかァァァァという結果になって首を傾げている次第。
カシアリはホラ、シンクロするからね…片方行き詰ってるともう片方も同じになるんだね…