黒
に
沈む
久方ぶりに顔を合わせたカシムの口から聞かされた、国がスラムに対して行っていたという政策はあまりに非道なものだった。
マリアムの死に驚き呆然としている間に、霧の団の頭領へと担ぎあげられ。
スラムの片隅から見上げる王宮は、ひどく遠く高く、とても冷たい建物に見えた。事実、国がスラムに対して行った仕打ちは冷酷非道なものと言ってもいいだろう。
数年ではあるが日々を過ごしていた場所。生活は苦しかったし治安も悪い場所で居心地が良かったかと言われれば一も二もなく頷く事は出来ないけれど、アリババには特別な場所であるのに変わりはなかった。
生まれた場所であり、家族と共に生きた場所だ。母は勿論、カシムやマリアム、そして一緒に過ごした悪童たち、あの場所で紡がれた絆が確かにあった。
だからこそだろう、アリババの胸中に広がる想いはひどく複雑なものだった。
スラムへの政策が施行された頃は、アブマドが政治の権限を振るうようになった頃と一致する。だが、まだあの時は王は健在だった筈だ。
スラムに施かれた政策がアブマドの発案なのか、それともラシッド王のものなのかは分からない。どちらにしろ、止められる事がなかったという事実だけがアリババの目の前に突き付けられていた。
彼はアリババをスラムまで訪ねに来た本人だ。言葉にして告げた事はなかったけれど、アリババのスラムに対する想いは少なからず分かっていたはずなのに。
そもそもが裏切られたと感じる程の交流はなかったのだから、失望するというのも筋違いな気もするのだが。それでも尚、心の内に渦巻くもやもやとした感情は消せなかった。
そんな風に迷い悩んでいたからだろうか。
アリババは数度目の「仕事」の時に逃げ損ねてしまった。正確に言うなら、窮地に陥った団員を逃がす為に囮になった際に逃げ切れなかった、というのが事の顛末なのだけれど。
どちらにしろ捕らえられたという事実に変わりはない。
縄で拘束されぞんざいに床に転がされたアリババの前には、襲った屋敷の主人が苛立ちも露わに立っていた。否、立っているだけでは飽き足らずに忙しなく部屋の中を歩き回っている。
「クソッ、この賊風情が! ワシの財産を奪うとは!」
アリババは冷めた目つきで男を見ているだけだ。
部屋の扉の前には用心棒が二人控えている。
つい先刻まで彼らに首謀者の居所やアジトの場所などを詰問されていたのだが、アリババはどれにも頑として口を割らなかった。そもそも首謀者と言えば霧の団で頭領を名乗っているアリババ自身に他ならないわけなのだけれど。
殴られた頬は熱く、口の中には血の味と臭いが広がっていた。おそらく腫れているのだろう。縛られた腕では押さえる事も儘ならないが。
顔よりも痛みが酷いのは右の脇腹辺りで、内側から外側から暴れるように熱を伴っていた。もしかしたら骨がいかれているかもしれない。
「いっそこの場で始末してやりたい所だが、賊の関係者は国に引き渡せと通達が来ておるし……クソッ、全くもって忌々しい!」
国の方でも霧の団の所業は無視出来ないものになっているらしい。
元々アリババがバルバッドに戻って来た時に噂になっていた程だし、最近では市民の支持も受けているから焦っているのだろう。
引き渡されれば晒し首にでもなるかな、と他人事のように考えながら、通達を出したのはおそらく長兄のアブマドの方だろうと当たりを付けた。
王宮で過ごしたそう長くはない時間の中ではほとんど交流はなかったが、気が弱く人前に出たがらないサブマドが賊探しに躍起になるとは思えない。
国民を苦しめる重い税も、煌帝国に迎合し市場と経済を混乱させている原因を作ったのも、国王の座に収まっているアブマドの決定によるものだろう。
もしかしたら、スラムを潰したのも。
「ワシの金をどこにやったんだ! 吐かんか!」
「っぐ……!」
がつんと顎を蹴り上げられた。威力は然程なかったが、無抵抗な所を蹴られれば流石に痛い。
蹴られた衝撃で横向きに倒れていたのが仰向けの姿勢になる。
男の足が容赦なくアリババの腹にめり込んできた。
元々痛みを訴えていた脇腹が、火に炙られでもしたかのように痛覚を揺さぶった。息が詰まる。
それでも意地で悲鳴だけは呑み込んだ。
体重を乗せられた踵を動かされて、ぎりりと奥歯を噛む。
「クソッ、生意気な! これでもか、これでも吐かんのか!」
こんだけ腹を圧迫されてりゃ口なんかきけるかよ、バカが。
痛みは酷いのだが、頭のどこかは酷く冷静にそんな事を考えていたりする。
アリババがどうあっても口を割りそうにないと悟ったのか、男は腹立たしそうに再度蹴りを入れてから足を退けた。
「……う……」
くらりと視界が回ったような気がした。
呻きながら首を振る。本当ならば身体を丸めて痛みに耐えたい所だが、拘束された身体はそこまで動けはしなかった。
悲鳴は耐えたがとにかく痛い。感覚の全てが痛覚にでもなり代わってしまったかのような気さえする。
「スラムのネズミめが! キサマらが奪った財産はなあ、お前らのようなカスが一生働いても手に出来ない程の価値があるんだよ!」
無駄に貯め込んでっから狙われたんだろ、と思いながらまた歩き回り始めた男を見やる。
肥え太り付き出た腹といい、ぐるぐると歩いている様はクマのようだった。
襲撃前に下見した団員に聞いた話だが、この男は貴族という自身の立場を傘にスラムの人間へは勿論屋敷で働く下々の者たちへもずいぶん横柄な態度を見せていたらしい。
奪われて当然だとまでは思わないが、私腹を肥やし貯め込んだ結果が現状なのだろうと思うと同情する気にもなれない。
「一体どうなっとるんだこの国は! 何故薄汚いネズミなど放し飼いにしておくんだ!」
「おい……言い過ぎじゃねえのか、おっさん」
「はっ、やはりネズミはネズミだな、汚い同胞を庇って傷のなめ合いか!」
「俺達はネズミじゃねえ!」
声を荒げれば、激昂した男に顔を蹴られる。
だが今度は痛みを感じるよりも怒りが勝った。転がったままで男を睨み上げれば、再度腹を蹴り上げられる。
転がされ体勢がうつ伏せに変わった所で、背中に今までとは違う衝撃が走った。
渇いた音と、背中に筋を引いたかのような痛み。
馬や駱駝に使うような鞭を打たれているのだとすぐに気付いた。
「ネズミはネズミらしくっ! 地を這って分相応に生きとればいいんだ! ワシら上の人間に逆らうなど! あるまじき事だ!」
何度も何度も打ち下ろされる鞭に、けれどアリババは痛みを感じていなかった。
麻痺したというより、男の言葉に意識が行ってそれどころではなかったと言う方が正しい。
何故。
どうして、たまたまスラムに産まれ育ったというただそれだけで、こうまで言われなければならないのか。
たまたま貴族として生まれついただけで、こんな物言いが、考えが出来るのか。
分からない。
だが思い起こされるのは、王宮でアブマドが自分を見ていた酷く冷たい目だ。
彼はアリババを半分血の繋がった弟などとは一度たりとて思ったことなどないに違いない。
アブマドはいつだってゴミクズを目にするような、見たくないものを目にしてしまったと言わんばかりの嫌悪と侮蔑の入り混じった表情でアリババを見た。
男の言葉が、まるでアブマドがそう口にしているかのような錯覚に陥る。
スラムに生きる奴らは決してネズミなんかじゃない。
皆日々を逞しく必死に生き抜いている。
生きることに貪欲で懸命なその姿は、きっと誰より何より人間らしくて人のあるべき姿なのではないかと、アリババは密かにそう思っていたりする。
豪華な家で高い家具に囲まれていたって、食べきれないほどの御馳走にありつけていたって、生きることに必死になれないまま過ごす日々にどれ位の意味があるだろうか。
「昼間は昼間で汚い物乞いのガキに出くわすし……ええい、忌々しい!」
男のその言葉を聞いた瞬間、アリババの脳裏に閃くように浮かんだのはたった一人だった。
マリアム。
マリアム。マリアム。マリアム。
今はもう思い出の中にしか存在しない少女。カシムの、そしてアリババにとっても妹だったマリアム。
思い出されるほとんどは、嬉しそうに楽しそうに笑う優しげな表情ばかりだ。
優しいマリアム。もう、あの子の笑顔は見られない。声だって聞けない。
何故、どうして、優しいマリアムが踏み躙られなければいけなかったのだろうか。
人を人とも思っていないような、こんな下種な人間が生き延びているのに、どうしてマリアムばかりが。
こいつらの方が、よほど。
頭痛がする。
痛みと哀しみと怒りが綯い交ぜになって、訳が分からない。
獣のように叫び出してしまいたいのを抑えながら拳を握った、その時だった。
鼓動が跳ねた。そんな、気がした。
音が、いや違う、声がする。どこからかは分からないのに、アリババの意識に何かを語りかけてくるような。
何を言っているのか耳を澄ませようとした所で、男の怒号が鼓膜を揺らした。
「キサマらなんぞ、一生隔離されて管理されて惨めったらしく一生を終えるのが似合いだと、まだ分からんのか!」
……なあ、マリアム。
なんでお前が死ななきゃいけなかったんだろうな。
こいつらみたいなクズが生きてるなんて、そんな世の中間違ってるって。
人を見下しながら生きてる奴が上に立ってるなんて、おかしいって。
俺がそう言ったら、お前は何て返してきただろう。
分からない。
……分からないんだ。
俺の思い出の中のお前は、いつだって笑ってるばっかりで。
目の前が暗い。
何も聞こえない。
暗闇の中に落とされてしまったかのような感覚は、時間にすれば一瞬に過ぎなかった。
だが、アリババには永劫の時を彷徨ったかのようにも感じられた。
暗い昏い中に沈み込み、何もかもが遠ざかり、自分の輪郭ですら曖昧になってしまったかのような。
その暗闇が何だったのか、何をもたらしたのかは、アリババには分からない。
だが、知らず伏せてしまっていた目を開けた瞬間から、世界はまるで色を変えてしまったかのようにも感じられた。
頭痛と耳鳴りが酷くて、アリババはこめかみの辺りを手で押さえた。
首を振りながら、立ち上がる。
アリババを拘束していた筈の縄が、その動きに合わせてぱらりと足元に散った。縄はあちこちが黒く煤けている。
突然立ち上がったアリババに、男はぽかんと口を開けて間の抜けた顔を晒していた。
どうやら何が起こったのかも気付いていないらしい。
とことん鈍いな、と思いながら唇の端を吊り上げて笑う。
「おっさん、腕落ちてっけど。痛くねえの?」
顎で指し示した床の上には、男の片腕が落ちていた。その手にはつい今し方までアリババの背を打っていた鞭が握られたままだった。
無論自然に落ちたものではなく、アリババが斬り落としたのだが。
抜いていたナイフを、微かな音を立てて鞘に戻す。
アリババにとっては幸運だったが、幾ら拘束しているからとは言え賊の身に着けている武器を奪わなかったのは落ち度だよな、と嗤った。
呆然とした表情の男は床に落ちた自身の腕と、肘から先がなくなった腕とを交互に見やり。ようやく事が理解できたらしく、顔を歪めて悲鳴を上げ出した。
「キ、キ、キサマァ! 何をした?!」
「……へえ? スラムのネズミに、教えを乞うのかよ」
「ワシの、ワシの腕がぁ、ワシの腕をっ、ゆる、許さん!」
「許さなかったら、どうする気だよ?」
「こ、殺せぇ! お前ら、このネズミの息の根を止めんか!」
男は扉の前に控えている二人の用心棒に声をかけた。
途端に臨戦態勢に入った男たちが、油断なく距離を詰めてくる。
即座に斬りかかって来ない辺りが手錬れだと思わせた。彼らが実戦経験を充分に積んできたのだと分かる。
だがアリババは焦る素振りも見せず、鞘からナイフを抜き放った。
ナイフの表面には、先程まではなかったはずの八芒星が浮かび上がっていた。
誰に教えられたわけでもないのに、どうすればいいのかが分かる。まるで、何者かに語りかけられているかのように。
ナイフを胸の前に構え左手を柄に添えると、自然と胸の内に言葉が湧き上がって来た。
それをなぞればいいのだと本能的に理解する。
「厳格と……礼節の、精霊よ、汝と汝の、眷属に命ず」
暗い場所で、手探りで探し物をしているような感覚だった。
掴んだものの形を指先で捉え、探る。
それが何であるかを理解すると同時に、唇が無意識のうちに言葉を紡いでいる。
曖昧な表現だが、未知の言葉が湧き上がって来るのをアリババはそんな風に感じた。
「我が……魔力を、糧として……我が意志に、大いなる、力を……与えよ」
剣に刻まれた八芒星を中心に、力が湧き上がって来る。
それは最早アリババが感じ取っている感覚的なものだけに留まらず、実際に部屋の空気を揺るがすような力の奔流となって視覚的に捉えられる程になっていた。
アリババの周囲の空気が、揺らめく。
まるで何者かの意思を反映しているかのように、熱と風が生まれる。
力。
口にしたその言葉に、目を細める。
そうだ、力だ。
何かを為すにも、変えるにも、守るにも。
力がいる。
それも、他者を寄せ付けない程の圧倒的な力が。
幸いにもと言うべきか否か、アリババは迷宮を攻略した。攻略してすぐの時には持ち出してきた財宝にばかり意識を取られていたが、今なら分かる。
ジンに迷宮攻略者だと認められる事の意味、その功績、そして与えられるものが何であるか。
「出でよ……アモン!」
名を呼んだ、その瞬間に。アリババを取り巻くようにして、炎の柱が立ち上った。強大な勢いのそれは、轟音と共に天井に大穴を開けた。
アリババの前にいた男たちが、驚きと恐怖に顔を引き攣らせる。
生き物は本能的に火を恐れるものだし、何の用意もない所からこれだけの炎が上がれば驚きもするだろう。
だが、何より彼らに恐怖を感じさせていたのは、炎の色に違いなかった。
アリババの周囲に上がる炎は、常では見られないような黒い色をしていた。まるで、禍々しい悪魔でも召喚したかのように。
実際、アリババの呼び出した炎はどこか人のような形を成していた。だがそれはすぐに解け、アリババの持つナイフを中心に音を立てて渦を巻く形に変わる。
「お貴族さんよ、俺はスラムのネズミなんだろ? じゃあ……止めてみろよ」
「や、やめてく」
「灰燼に帰せ」
ナイフの切っ先を男に向ける。
炎はアリババの意思を汲んだかのように、まっすぐに男たちへと襲いかかった。
避けようもなく炎にまかれた男たちが断末魔の悲鳴を上げて転げ回るのを、アリババは無表情で眺めているだけだった。
心の内には何もなかった。
人知を超えた力を奮って尚、アリババの胸中には強大な力を得た事への歓びも、ましてやその力で人を死に至らしめた事への感慨も後悔も、何も浮かんでこなかった。
心のどこかが凍りついてしまったかのようで、ただ目の前の事実が流れていくようにしか感じられない。
やがて男たちが声もなく倒れ伏し炭のようになってしまうと、興味を失ったかのように頭上を見上げる。
アモンの炎で開けた穴から、空が見えた。
霧はまだ晴れていないようだが、大分薄くなってきている。
「……帰るか」
呟き、扉の方へ足を向けた。
先の轟音を聞いてだろう、複数の足音が駆けてくるのが聞こえた。
静かにナイフを構える。
「旦那様っ、一体何が……?!」
扉が開くと同時、アリババは床を蹴った。
暗い部屋には、炎が尾を引いた残滓ばかりが残された。
アリババは、振り返らなかった。
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