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「余裕がない。」
立ち上がったアリババが、カシムの左腕にちらりと視線を寄越した。
今でこそ日常生活に支障がない程に回復したものの、カシムの左腕はバルバッドで負った傷が元で動かなくなる寸前にまで至ったのだ。怪我が治った今でも痺れるような痛みが走る事があり、握力も落ちていた。
医師の見立てでは元通りに治るかどうかは五分らしい。
アリババもその辺りの話は聞いているのだろう。その目に不安そうな色が揺れているのを認め、カシムは敢えてふっと笑った。
「気ぃ遣ってんじゃねーよ。生意気」
お前が気に病むことじゃない、と。
慰めの言葉を投げかけるのは簡単な事だった。だが例えそう告げても、アリババの胸中に巣食う後悔全てを拭い去れるわけじゃない。
それぞれが抱え背負う業も後悔も闇も、最終的には他の誰でもない自分自身で向き合い晴らすしかないものだからだ。
だから今、伝えるのは。
カシムは左手でアリババの右腕を掴むと、ぐいと引いた。
一度瞠目したアリババだが、カシムの意図を悟ったのか抵抗することなく腰を折り、顔を近付けてくる。
ふわりと、重ねるだけの口付け。
掴んだ腕が、触れた唇が、ただ暖かい。胸の内、心の奥底から様々な感情が溢れ出て来るのを感じた。
唇を離し間近で覗き込んだアリババの瞳にもまた、言い様のない色が在る。
自分と同じような感情を抱いているのだ、と告げずとも分かった。
強いのは喜び、そして安堵だ。手の届く距離に帰ってきたのだ、と。触れる事で実感する。
それと同時に、言葉がごく自然に口を割って出ていた。
「おかえり」
お前が何をしても、何も為さなくても。
俺はお前がここに帰ってきてくれた、それだけで充分だ。
こんな言葉を、こんな気持ちで告げられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
カシムの言葉を耳にしたアリババは、一瞬知らない言語を聞きでもしたかのようにぱちりと瞬き。
だがすぐに、くしゃりと顔を歪めた。
この顔を知っている、そう思う。それは泣き出す寸前の表情だった。
「……ただいま」
震える声、目の縁にじわりと溜まっていく涙。
泣き顔は幼い頃のままで、思わず笑ってしまう。
共にスラムで過ごしていた日々は、もうずっと遠くにあると思っていたのに。物理的にも、精神面でも。
ゴミ溜めのような街での生活が、それでも暗く汚いものばかりではなかったと、今なら穏やかに思えた。
「あーあ、泣くなよこれぐらいで。迷宮攻略した奴とは思えねえな」
わざとからかうような口調で言いながら、頬に手を当て親指で目の端を拭ってやる。
アリババは喉の奥でうう、と唸りながらもカシムの手にされるがままになっていた。
この手が自分に害を与える事はないと、そう信じきっているように。
一度と言わず幾度となく振り払い、時に傷つけた事さえあるこの手を、ただ受け容れる。当たり前のような顔をしているけれど、それがどれだけカシムを救っているか、アリババはきっと知らない。
アリババはいつだってそうだ。たった一つの言葉で、表情で、カシムの心を浚っていく。
良くも悪くも翻弄されるのが、けれど決して不快ではない辺りが自分でも呆れてしまうのだけれど。
回廊の端からこちらの様子を窺っていた誰かの気配が遠ざかっていく。
一瞬だけ垣間見えた横顔と背格好は、アリババとそう年の変わらないだろう男だった。
顔立ちや服装から、あれが迷宮に同行したという煌帝国の皇子だろうと判断する。名は確か、白龍と言ったか。
アリババ曰く生真面目な性格らしいから、ここでの出来事を吹聴したりはしないだろう。
まあカシムとしては、誰に告げられようと困りはしないのだが。
去り際の横顔、その口元が何かに耐えるように引き結ばれていたのを思い出して、俺も大概余裕ねーな、と苦く考えた。
譲らない、立ち入るな、と。
幼い独占欲を振りかざし牽制していた自分に気付かされたからだ。
奪われたくない、と思った事なら以前にもあった。
けれど今胸の内に渦巻くのは、あの頃のように飢え渇いた衝動とは違う。
失いたくない、と願い縋るような心情は、どこか祈りにも似た強さを持っていた。
「カシム?」
「情けねーツラ、してんなよ」
呟きはアリババにというより、自分自身に向けて言い聞かせる色合いの方が強かった。
頬に触れていた手をするりと首の後ろへ滑らせる。
くすぐったかったらしいアリババが僅かに肩を竦ませるが、抵抗はなかった。
夜の闇にも紛れることのない、明るい金色をした髪を指先に絡ませる。
光をそのまま集め体現したかのようなその色彩が、好きだった。本人に告げた事はないけれど、それこそずっと、スラムにアリババがいた頃から。
太陽の下で跳ね回る金色は、カシムにとってひどく胸の内を暖かくするものだった。
あの頃の暮らしはお世辞にも良いとは言い難いもので、健康状態が良好とはとても言えないものだったアリババの髪だって今よりずっと痛んでいた筈なのだけれど。
指先に少し力を込めただけでも、開いていた距離は再びなくなる。
促すように舌先で唇の表面をなぞれば、アリババがふっと息を吐きながら口を開いた。
隙間から舌を差し入れ、絡ませる。宴で飲んできたのだろう、アリババの口腔からは果実酒のものらしい甘い香りがした。
その香りがアリババ自身から発せられているかのような気がして、酩酊感にも似た感覚がカシムの脳をくらりと揺らす。
無事の帰還を喜び高揚する心が、いつもと違う心地を抱かせているようだった。
「っん、ふ……」
交じり合わせた舌を自身の口内に導き、その先を甘噛みする。
走った刺激に、アリババが声をもらした。
いつの間にかカシムの肩に縋るように置かれていた手、その指が震えながら服の布地を握る。
こんな状況下において尚、アリババがカシムの腕を気遣っているのが分かって思わずふっと笑った。
「ん、まあこれくらい顔赤けりゃ酔い醒ましって言っても信憑性あんだろ」
唇を解放し、言ってやる。
アリババは一瞬何を言われたか分からないような顔をしていたが、やがて意味を解すると何とも言えない苦い顔になった。
「……カシム。お前、そういうの、遊び人ぽいぞ」
「ぽいじゃなくて、お前よりかは経験豊富なんだよ。童貞くん」
「うわあ、ムッカつく」
ぶつぶつと、口の中で何やら文句を言いつつ離れようとしたアリババの腕を、するりとなぞる。
掴んではいない、触れているだけだ。けれどアリババはそれだけの事で動きを止めた。
むくれていた顔に、じわじわと困惑の色が広がっていく。その頬は先の口付けの名残りで紅潮したままだ。
アリババが酒にあまり強くないのは周知の事実のようだから、きっとこの顔色で酒宴に戻った所で何か言われたりはするまい。
いやむしろ、酒が回っているようだから自室へ辞すようにと勧められるかもしれない。
「……話し足りなきゃ、俺の部屋来いよ」
低く、囁く。
脳髄に直接響かせるような音で。
頬を赤く染めたアリババは、カシムの言葉に応とも否とも言わず、曖昧に頷いてから逃げるように身を翻した。
途惑いを宿した瞳の奥に確かに在った欲の色を分からない程に、子供ではない。カシムの誘いの意図を理解したであろうアリババもまた、然り。
遠ざかる足音を聞きながら、カシムは自分の余裕のなさに息を吐いていた。
アリババの熱を、欲を中途半端に煽るような真似をしたのはわざとだ。そうしてしまえば、アリババが自分の許を訪れるしかないだろうと確信していたから。
アリババはいつだって、自分ばかりが翻弄されている、カシムはずるい、と言う。
だがそれはこちらの台詞だと思っているのは、カシムの方こそだ。
アリババに対していると、余裕がなくなる。平静を保っていられなくなる。
煽られ、呑み込まれるような気がする。
性質が悪いのは、それが決して不快なばかりではないという事だ。
以前ならば違いを見せつけられる度に焦燥と苛立ちが胸中に渦巻いていたというのに。今は、違う。
異なるからこそ向き合える、それが何より得難いものだとさえ思えた。
夜はまだ終わらない。
寝物語にアリババの話を聞くのは、この上もない贅沢だろう。
目を閉じたカシムに向かって、聞いてんのかよ、と呆れたように言って、その後におやすみ、と笑いながら言うのだ。
他愛もないやり取りこそが泡沫の夢のようだとさえ思う。
一度は自身の命も、アリババとの絆も手離しかけたから余計にそう感じるのかもしれない。
それをこそ幸せと言うのだと、カシムはまだ知らなかったけれど。失い難いと思える気持ちは、ただひたすらに暖かかった。
柔らかく耳朶を穿つ声に身を委ねて視る夢は、きっと優しい。
カシム生存IF、105夜読了後MIX! の、カシム視点+α。
…こりゃーカシアリに太刀打ちできないわ、って代物になってしまって書いておいて何だが途惑っている。
開き直ったカシムが最強すぎる件について。
ラブラブだ。ラッブラブだ!!!!
カシムが! 生きてたって!! いいぢゃない!!
という勢いだけで書いた話です。
「おかえり」「ただいま」が言わせられて余は満足である。