白亜の標は彼の人がため 通されたアリババの住まいの中は、外観よりかは広かった。というより、必要最低限しか物がないからそう見えるのだろう。
アリババが出してくれた茶は、涼やかな新緑の香りがした。
ファナリスであるが故鋭敏な嗅覚を持つマスルールだが、その香りは決しておしつけがましくなく好ましく感じられた。
何となく、アリババらしい選択だと思う。決して不快感を抱かせるでもなく、けれどちゃんと存在を主張する。
「味、どうですか?」
「……美味い」
「良かった。匂い、キツくないです?」
「平気だ。飲みやすい」
言えば、アリババがどこか含みありげに笑った。
悪戯を仕掛けた時のような、それでいてどこか照れているかのような。
目線で理由を問えば、手にした杯の中に視線を落としながら少し言いにくそうに口を開いた。
「何となく、マスルールさんの香りっぽいな、とか思って」
つい買っちゃったんですよね、と。
俯きぎみのアリババの耳が赤くなっている。
あまり表情の変わらないマスルールは赤面こそしなかったものの、内心では動揺した。
アリババが旅立つ時、約束はおろか別れの言葉すら交わさなかったのだ。
世間一般の言葉で言い表すならば所謂「恋人」と呼べるような関係の二人だったが、元々明確な言葉があって始まった関係ではなかった。
何となく傍にいるようになって、その時間が長くなって、気付いた時には始まっていた。
いつどんなきっかけで恋に落ちたのか、聞かれても答えられない。
そんな風だったから、アリババが敢えて別れを告げずに行ったこと自体が答えなのだろうと思っていた。
始まりが曖昧なものだったから、終わりも同じなのだろうと。
そう考えていながら尚追ってきたのは、このまま何もなかったように終わらせたくなかったからだ。
アリババが終わらせたいと思っているなら、ちゃんとその口から聞いておきたかった。
自分の中にこんな未練がましい気持ちが眠っているなんて知らなくて、最初はひどく途惑った。だが、困惑以上に会いたいと思い願う気持ちの方が強かった。
執着しているのはきっと自分の方ばかりなのだ、と。
そう思っていたからこそ、アリババの言葉は衝撃的だった。
最後に顔を見てから二年近く経っている。
その年月の中で、アリババもまたマスルールを忘れてはいなかったのだと。
日々の暮らしの中で時折にでも思い返し、つい似た香りに手が伸びるほどには想いを寄せていてくれたのだ、と。
驚き、そしてじわりと歓びが胸中を満たした。
「髪、伸びたな」
「ああ、これですか? 切る暇なくて気付いたらずるずると」
髪の先を指で摘まみながら、アリババが苦笑する。
マスルールは腕を上げ、アリババの手を包み込むようにしながらその髪に触れた。
伸びた髪の感触は以前と微塵も変わっていなかった。
触れて、ようやく安堵にも似た心地が訪れる。
アリババが確かに目の前にいるのだと、手を伸ばせば触れられる距離なのだと、その事実が何よりも得がたい。再会してすぐに抱きしめておいて今更かとは自分でも思うけれど。
指先で髪を梳いていると、あまりにも変わらない距離感と感触のせいで、二年もの月日が流れている事など信じられないような気さえしてくる。
「正直、まだ夢じゃないのかなって思ってたりするんですけど。マスルールさんがここにいるなんて」
暫しマスルールに触れられるに任せていたアリババが、ぽつりと零した。
持っていた杯を脇に置き、マスルールの手の甲にそっと手を重ねてくる。マスルールの手は、アリババの手に挟まれた状態になった。
マスルールの知る限り、アリババの手のひらはいつだって固くてあちこちに小さな傷があった。この穏やかな島では戦う事こそないのだろうが、それでも今尚アリババの手は以前と変わらず固い。
時に剣を持ち、時に生きる為に戦ってきた手だ。
言及すれば本人は否定するだろうが、この手が多くの人を救い導いた。
マスルールもそのうちの一人なのだと言えば、どんな顔をするだろう。
「俺、マスルールさんがシンドバッドさんから離れるなんて、想像も出来なかったっていうか」
言われ、俺も想像もしていなかった、と内心で呟いた。
マスルールにとってシンドバッドは恩人であり、主であり、何にも代えられない。
彼の下を離れて旅立ってきた今もなお、その事実は変わらない。
レームの闘技場で剣奴としての日々を強いられただ息をしているばかりだったマスルールを救い、生きることを教えてくれたのはシンドバッドだ。
本人に告げたことはないけれど、人間らしい生き方を選ばせてくれた彼はまるで親のようだとさえ思う。
それぐらいマスルールにとってのシンドバッドは唯一絶対だった。
マスルール自身も自覚していたくらいだから、周囲にそう見えるのは当然だろう。
そのシンドバッドの元を離れる決心をさせたアリババは、別の意味でマスルールを導いたと言える。
誰かの庇護下にいるだけではなく、自身の意思で行き先を決め歩んで行くこと。
不安も一抹の淋しさもあれど、自分で選び取った道を進んで行く事は同時に楽しくもあった。
手探りしながら先に進むような感覚はもどかしくもあったが、今まで自分が如何に狭い世界で生きていたかを思い知らされもした。
シンドバッドが書に認めているような冒険活劇では決してなくとも、歩む道筋を楽しいと思えた。
「歩む道が同じでなくとも……別れではないと教えてくれたのは、お前たちだ」
「俺たち……ですか」
呟いたアリババが、ふっと笑う。何かを思い出し懐かしむように、いとおしむように。
その脳裏に過っているのは、彼を選んだマギか、自分と同郷である愛弟子か、それとももっと別の誰かか。
アリババの内側には、マスルールが知り得るだけでも大勢の人間が足跡を残している。
マスルールが知らないところでの交友関係がどれくらい広いのかは、最早想像もつかない。
今は少しだけ、それが面白くない。
目の前にマスルールがいるのに、ここにいない他の誰かに思いを馳せているというのが。
感情に任せて手を伸ばす。
片手は未だ掴まれているままだったが、マスルールの身体能力をもってすれば空いた片手だけでもアリババを引き寄せるには充分だった。
ひょいと持ち上げ、膝の上に座らせる。
アリババは驚き目を丸くはしたものの抵抗は見せず。そのまま、マスルールの膝に大人しく収まった。
「……俺、マスルールさんのこと、忘れてませんでしたからね」
「ああ」
アリババの手がゆっくりと動き、マスルールの頬に添えられる。
シンドリアで同じ時間を過ごしていた時も、よくこうして触れられた。
幼子の戯れのように、触れることで存在を確かめでもしているように。
アリババの指は、壊れものを扱ってでもいるかのように柔らかく優しくマスルールに触れた。
大切にしているのだと、そう語るような指先。
ファナリスであるマスルールはそこいらの有象無象とは比べ物にならない程に頑丈に出来ているというのに、アリババもそれを知らないわけではないだろうに、殊更ゆっくりと。
指先が目じりに辿りついても、マスルールは瞬き一つすることはなかった。
アリババの一挙手一投足を見逃すわけにはいかないと、そう思っていたからだ。
「同じ、気持ちだったって……思っても、いいですか」
「だから、ここまで来た」
マスルールは元来、考える、という行為が苦手だ。
頭の中や書面上だけで色々とやりとりするよりも、動いた方が余程早いし結果に繋がると、そう考えていたから。
けれど、アリババを追うという結論に至るまでのマスルールは、間違いなくこれまで生きてきた中で一番頭を使った。
追い掛けてもいいのか。拒絶されないか。
考えて、思案して、訳が分からなくなっていっそ途方に暮れて。それでも尚、最後に残った気持ちが「会いたい」という至極単純なもので。
自身の立場もしがらみも、頭の中にはなかった。
アリババを追い掛けると告げた時、シンドバッドは少しだけ淋しそうに、だが何より嬉しそうに笑ったのを今でもハッキリと覚えている。
マスルールの腕を軽く叩きながら、お前が決めたことなら俺は応援するさ、と。そう言ってくれた。
離れていることは、寂しい。そして少し、不安だ。
けれど、後悔はない。
アリババを真似るように、頬に触れて指先をそっと滑らせる。
頬に、目じりに、耳に、顎に、唇に。
くすぐったかったのか、アリババがふっと肩を震わせた。
宥めるように額にかかる髪を上げ、額に口づける。
「会いたかった」
言葉は、するりと唇から零れていた。
何をどう言おうか、言うべきか、ここに来るまで色々考えていたというのに。
そのどれもが頭の中からかき消えていて、ただ思いの丈が溢れ出ていた。
だが口にすると、その言葉以外に伝えるべき事などないような気さえしてくる。
マスルールの言葉を聞いたアリババは、暫し何を言われたのか分からないような顔をしていたが。
「……泣かないでおこうって思ってたのに、泣かせる気ですか……」
瞳が一瞬驚きに瞠られたかと思うと、すぐに泣き出しそうな表情になった。
涙腺が弱いのは変わっていないようで、見れば瞳の表面には既に涙の膜が張られ始めている。
「泣けばいい」
「カッコ悪いじゃないですか……」
顔を見られたくないらしいアリババの腕が首の後ろに回され、元々近かった距離が更に近づき密着する。
暖かい。
首筋に顔を埋めて息を吐けば、アリババの腕に少しだけ力が込められた。
「……俺も、会いたかった、です」
ややあって囁かれた言葉は、ひどく小さな音量だったけれど。
マスルールの耳には、ハッキリと届いた。
顔は見えないけれど、アリババが泣いているだろう事はその震える声から明らかだった。
アリババの性格から言って、唐突に訪れたマスルールを拒否するような事態にはならないだろうとは思っていた。
しかし実際は想像していたよりもずっと多くアリババの内にマスルールの存在があったのだと知る。
その事実は、素直に嬉しかった。
もっと早く訪れるべきだった。
思いながら、アリババの背を抱きしめる。
体格差がある所為で、アリババはマスルールの腕の中に閉じ込められたような体勢になった。アリババからの抵抗はない。
手を置いた背中は微かに震えていて、慰めるようにそっと撫でた。
体温を分けるように。ここにいるからと告げるように。
会いたかった。言葉を交わしたかった。触れたかった。
ここまで来た理由なんて、それ以外にない。
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