流星の向こうに
「……仕事、行かねーと」
起き上がるなりそう呟いたアリババに苦笑しながら、オルバは驚かさないように声をかける。
「おはよう、アリババ」
「おは……誰、だ?」
「俺はオルバだよ」
アリババの記憶は一日しか保たない。
夜眠り朝目覚めると、前日のことは綺麗さっぱり頭から抜け落ちている。
今のアリババの精神状態は、チーシャンという都市で御者の仕事をしていた頃に戻っているのだという。
仕事、と呟いていたのはそのためだ。
働いていたのはもう何年も前の事のはずなのに、アリババはいつも規則正しく同じ時間に目を覚ますのだった。
昨日の出来事は消えてしまうのに、離れて久しい生活の事をこうもきっちり覚えているのは不思議だと思う。
アリババと共に生活をしているオルバも、すっかり同じ時間に目覚める事に慣れてしまった。
アリババとの一日は、いつも自己紹介から始まる。
見知らぬ部屋で目覚め、見知らぬ人物が一緒にいて、困惑するアリババに一つずつ事情を説明していく。
ここはチーシャンではない事、アリババは事故が元で記憶が一日しか保たない事、今はオルバと共に暮らしている事、などをだ。
説明して尚アリババの表情が晴れない時は、その手を取り外へと連れ出してやる。
オルバはチーシャンを訪れた事はないが、砂漠にあるオアシス都市だと聞いていた。
今二人が暮らしているのは海に囲まれたそう大きくはない島で、おそらくチーシャンの景色とは全く異なるものなのだろう。
アリババは暫し外の景色を眺めた後、オルバに視線を戻し分かった、と頷くのだった。
今日もまたハジメマシテから始まる、いつも通りの一日のようだ。
「なあ、オルバはさ……なんで、俺と一緒にいてくれるんだ?」
昼過ぎ、アリババがぽつりとそう聞いてきた。
時間の差異はあれど、アリババはいつも同じ質問をしてくる。
オルバからしてみれば不可思議な事など一つもないのだけれど、記憶のないアリババからすればそう言ってはいられないのだろう。
アリババにとっては見ず知らずの人物が、何故か一緒に暮らしている上に面倒までみてくれている、という話になるのだから。
今日は早かったな、と思いながらアリババの前に座る。
アリババは少し不安そうな眼差しをしていたが、視線を逸らすような事はなかった。
緊張はいらない。怖がることもない。
そう告げるように、笑顔を向ける。
アリババが、無意識にだろうが若干強張らせていた肩の力をふっと抜いたのが分かった。
「俺は、あんたに救われたんだ」
「え……」
「命も、だけど。どっちかって言ったら、精神的な部分で」
「……俺が?」
「そう、あんたが」
首を傾げて半信半疑でいるのに、念を押してやる。
アリババの時は十七歳で止まっているのだから、オルバの言葉が分からなくても当然なのだけれど。
それでも、オルバは何度だって同じ言葉を紡いだ。
事アリババに関する事例で、オルバが面倒だと感じるようなものは何一つとしてない。
「……でも、それだけじゃ……」
「足りない?」
「お前の言う事、信じてないわけじゃないんだ。ただ、なんつーか……それだけじゃ、あんまりお前の割に合わないんじゃないかって、そう思ってさ」
割に合わない。
オルバは胸中でアリババの言葉を復唱した。
この頃のアリババは商売人を志していた事もあったのだと言う。その所為だろうか、損得勘定で割り切る思考がオルバ達と出会った頃よりずっと強い気がする。
元々強かな面はあったが、他者と一線を引いている感が色濃く出ているような、どこか硬質な態度が見え隠れするとでも言うべきか。
最初の頃こそ些か驚きはしたものの、嫌悪感はなかった。
自分が知らなかった、出会うことのなかった筈のアリババと話が出来るのは、不謹慎とは分かっていながら単純に嬉しくもあった。
ふっと笑う。
もうこのやり取りも何度目だろうか。
途中からは数えることもやめてしまった。
何度聞かれたって、同じ答えを返すだけだ。
オルバはアリババの手を両手で包み込むように掴んだ。
唐突な接触に、アリババの目が驚きに見開かれる。
「俺はあんたに感謝してる。命も、心も、救われた」
「……うん」
「けど、それだけじゃ理由に足りないって言うなら、俺があんたを好きだから、って言うしかないんだけど」
「……はい?」
「好きなんだよ。だから、割に合わないどころか黒字。一人じゃ生きていけないから、って大義名分であんたと一緒にいられるから」
飽きるほどに繰り返した言葉を、今日もまた口にする。
唐突な告白に頭がついてきていないらしいアリババの手をぎゅっと握り、すいと顔を近づけてみた。
金色の目が、オルバの真意を探ろうとでもするかのようにまっすぐに向けられる。
臆することなく見返しながら、オルバは微笑んだ。
「好きだから、大事にしたいし、独占したい。そう言ったら、理由になるか?」
「え、と」
オルバの畳み掛けるような言葉に、アリババは困惑していた。
視線が逃げ出したそうにふらついた後、恐る恐るもう一度オルバへ戻って来る。
好きだと告げると、アリババはいつも同じような顔をした。
困ったような、何故そんな事を言われるのか分からない、とでも言いたげな。
精神年齢が十七の所為か、アリババの仕草や表情は実年齢よりも幼く見える。だが、こんな時の表情はもっと幼く見えた。
幼子のような、と言うと誇張しているかもしれないが、それに近い。
差し出されるものに手を伸ばしていいのか否か、途惑いながら見つめているかのような。
置いて行かれた子供にも似た、眼差し。オルバはその目を知っている。
世界から切り離され、置いて行かれた子供。それは他の誰でもない、過去の自分だ。
親に、信じていた誰かに、それまで生きてきた世界に、裏切られ置いていかれた人間のする眼差しだ。
誰を恨むでも憎むでもなく、ただ周囲を傍観する事しか出来ない、そんな目だった。
たまらなくなって、オルバは掴んでいたアリババの手を引いていた。
上体が傾ぎ、アリババの体が倒れ込んでくる。元々近過ぎる程だった距離がなくなる。
けれど抱きしめるのではなく、あくまで支えるだけだ。
アリババがいつでも跳ね除けられる程度の力で。
ここにいる。俺はどこにも行かない。
心の中で呟きながら、そっと寄り添う。
「……俺の」
「うん」
「俺の記憶が、ちゃんとあったら。オルバに、何て答えたかな」
「さあ? 俺はアリババじゃないから知らね」
「……そこは何か言っとけよ」
おそらくは苦笑だろうが、少し笑ったらしいアリババがオルバの肩に額を預けてくる。
成長過程でアリババの上背を追い越してしまったオルバにしてみれば、多少体重を預けられても何ということはない。
ある日とうとう逆転した背丈にアリババは苦笑し、オルバは内心で密やかに拳を握っていた。
これでもっとこの人を上手く守れる、もっと役に立てる、そう思っていた。
戻れない日は懐かしく愛おしい。
アリババはあの日の延長線上にはいないけれど、オルバの決意は変わらない。
このひとを、護る。
その想いは揺らぐことなくオルバの芯にある。
オルバの事を「知っている」アリババだったら、何と答えたか。
それは何よりオルバが知りたい事だった。
何となくだけれど、記憶をなくさないままのアリババに想いを告げても、成就はしないのだろうとは分かっていた。
オルバだけじゃない。アリババは、多分誰のことも選ばない。
だから、本当は。
アリババがこうなった時、オルバは心の隅の方で安堵にも似た気持ちを抱いたのだ。
一日毎に記憶が消去されてしまうアリババは、一人では生きられない。
傍にいるのが自分であれば一番嬉しいけれど、そうでなくても構わない。アリババが一人きりにならないのであればそれでいいと。
アリババからすれば甚だ迷惑な話だろうが、そう思ったのだ。
オルバはアリババが好きだ。
告げた言葉に、想いに嘘はない。
恋と呼ぶには少々重く、愛と呼ぶには清廉すぎるこの感情に付ける名前を、オルバは知らない。
このひとが寂しくなければ、幸せであればそれでいいと思う気持ちと。
唯一を選ばなかったであろうアリババを独占出来ている事への優越感と。
様々な感情が綯い交ぜになっている。
端から見ればその様子は限りなく恋に近く見えるのだろう。
オルバ自身、アリババ以外の誰かにこんな想いを抱く事はないだろうと自覚している。
他の誰にも触れさせない、暴かせない、神聖なもののような。
最初で最後の恋みたいだね、そう言っていたのはアラジンだった。
些か詩的な表現だけれど、多分それが一番近いのだろうと思う。
「なあ、俺さ」
もたれていた体を起こして、アリババが言う。
離れた体温が寂しい。けれど引き寄せる事は出来ない。
代わりに手を握った指先にほんの少しだけ力を込めた。アリババに気付かれない程度に、微かに。
握った手はただ暖かくて、胸の奥が詰まって泣きたいような気分になった。
支える事は許されても、引き寄せ抱きしめる事は出来ない。それが今のアリババとオルバの関係だ。
「俺は、オルバのこと知ってる俺じゃないかもしれないけど、でもさ」
「うん」
「俺と一緒にいてくれるのが、オルバで良かったって思うよ。だから、ありがとう」
「……お礼言うなら抱きしめていい?」
「え」
抱きしめたいのは本音だったけれど、敢えて冗談めかした口調で告げた。
案の定、アリババがびしりと身を固くするのが見えて笑う。嫌悪というよりも、どうしたらいいのか分からないらしかった。
握っていた手を解いて、オルバはアリババの髪を撫でた。
「嘘だよ。俺は、あんたといられるからそれで充分。さっきも言ったけど」
ふっと笑いながら言う。
からかわれたのだと気付いたらしいアリババだったが、怒るでもなく途惑いぎみに視線を彷徨わせた。
言葉の端に滲ませた本心を少なからず感じ取ったらしい。
この頃のアリババは警戒心が強く、そのくせして人の機微に聡い。商売をしている以上客の顔色が気になるのは仕方ない事だ。
しかし警戒させてしまうならまだしも、アリババはただ困っている。
オルバの向ける感情を知っている所為もあるだろうし、世話になっている相手を無碍に出来ないのもあるだろう。
根本的な所でアリババは人に対して優しいのだ。
交渉の場や政治的局面では驚くほどに怜悧な判断を見せたりもするアリババだが、この頃は精神的に安定していないように思える。
理由は何となく分かるから、オルバは「その部分」には触れない。
実を言うと意を決して踏み込んでみた事もあるのだが、翌日にはやっぱりアリババの記憶はなかったのだ。
それからはアリババが切り出して来ない限りはオルバからその話題を出すような事はない。
「俺が好きでやってんだから、あんたは気にしなくていいんだ」
軽い口調で告げて、けれどアリババがこれだけでは納得しないであろう事も分かっていた。
与えるものと与えられるものとが常に等価交換でなければならないとしたら、オルバはどれだけの事を為したらアリババに全ての恩を返せるというのか途方もつかない。
だから本当に気にする必要などないのだけれど、今のアリババにはそれが分からないのだ。
アリババの中にオルバと過ごした日々の記憶も思い出も見当たらないのだから。
それがもどかしく淋しい。けれど。
「……気になるんなら、笑ってくれよ。俺、あんたが笑ってる顔が好き」
言いながらその頬を指先でむに、と摘まむ。
アリババが暫く逡巡した後にへらりと向けた笑顔はそれはもう力の抜けたもので。
毒気を抜かれるというよりも脱力させられてしまうその表情を見て思わず噴き出したオルバに、アリババが臍を曲げてしまったのは想定外だった。
宥めすかしながらも子供のような態度がかわいいなあなどと腹の内で考えていた事は、アリババには決して知られてはならない秘密としてオルバの胸中深くにしまい込まれた。
◆
来客があったのは、夜も更けて随分と経った頃だ。
寝息を立てるアリババが目覚めそうもないのを確認してから、オルバは部屋を出て、そのまま小屋の外に向かう。
戸口からやや離れた位置に、彼は立っていた。
オルバの姿を認めてひらひらと、子供のように手を振る。
すらりと長い手足は子供ではありえないものなのに、やけにその幼げな仕草が似合う。
首の後ろで一つに編んだ髪が揺れ、様々な叡智を湛えた瞳が細められる。
ルフに愛され、その加護を受ける存在。
「やあ。アリババくんの調子はどうだい?」
「症状は変わらない。それ以外は健康そのもの」
「そっか。やっぱり君に任せて良かった」
言いながら、アラジンは笑う。至極穏やかな顔で。
アリババの様子は聞くくせして、会おうとはしないし、その素振りも見せない。
時間を見つけてはこの場所を訪れるくらいには気にしているくせに、訪問はいつだってアリババが寝入った後だ。
最初こそ偶々だろうと思っていたが、それが何度も続けば意図的であると分かる。
アラジンは、アリババと顔を合わせようとしていない。
「……お前、なんであの人が起きてる時に来ねえの」
「うーん……そうだねえ。怖いから、かな」
「怖い?」
「うん。僕はね、アリババくんにお前誰、なんて聞かれたらきっと耐えられない。どうして覚えていないんだいって、詰っちゃいそうだから」
それは、毎朝オルバがアリババに言われている言葉だ。
目が覚めて、おはようと告げて、その度にあんた誰、と問われる。
予定調和のように繰り返されるそれに、慣れた事など一度としてない。言われる度に胸のどこかが引き絞られるように痛み、だがそれを隠してオルバは笑いながら自己紹介をするのだ。
どうして覚えてないんだよ、と責めたい気持ちはオルバにだってある。
オルバでさえそう思うのだから、付き合いの長いアラジンが耐えられないと感じるのも無理はないだろう。
「……そっか」
「だから、オルバくんは凄いと思うよ。僕にはちょっと……真似出来ないや」
「なんでだよって、思わないわけじゃねえけど。俺も」
「そうなのかい?」
「でも、それはあの人にじゃなくて、あのひとをこんな風にした、世界とか周りとか、そういうものに対してだから」
「……うん、そうだね」
アラジンもモルジアナも、アリババの症状を何とか治せないかと情報を集めながら世界各地を転々としている。
二人だけではなく、アリババの現状を知る者たちは多かれ少なかれそうしてくれているらしい。
だが今の所これと言った打開策は見つからないままだ。
この場所に落ち着くようになる前も、色々な方法を試した。様々な分野の医者に診せ、そのどれもがアリババの症状を改善させるには至らなかった。
静かな場所でアリババをゆっくり休ませたい、と。そう言い出したのは誰からともなくだった。
その守役に自分が選ばれるとは思わなかったが、今の環境はアリババにとって悪くはないのだろう。
欠けた記憶、見知らぬ人物、知らない場所にいるにも関わらず、アリババは大きな混乱を見せたりはしないからだ。
誰、と問われる事に胸が軋むような気分になりこそすれど、そこまで悲壮感を覚えないのは、アリババがこの症状を見せるようになった初期に比べるとずっと落ち着いているからかもしれない。
「今度、あのひとが起きてる時に来いよ。最初は、ちとキツイかもしんねーけど」
「……うん」
逡巡しながら頷くアラジンを見て、オルバは苦笑する。
躊躇う気持ちも分からなくはないが、一度ちゃんと会っておいた方がいいと思ったのだ。
アリババの中に自分の存在がないのは淋しい。それは勿論だ。
だが、それでも。
「あのひと、笑ってるから。ちゃんとそういうの、見た方がいいだろ」
アリババの中での時間の進み方は、確かに停滞してしまっているのかもしれない。
それでもアリババはちゃんと生きている。
説明された自身の現状に途惑いを見せて尚、自暴自棄になったりはしない。
記憶が一日しか保たない、なんて不安を感じて当たり前なのに。
楽しければ笑うし、怒ったり拗ねたりもする。
食事だってきちんと摂っているし、オルバ一人にやってもらうのは申し訳ないからと手伝ってくれるのも珍しくない。
生きる事を諦めずに毎日を過ごしている、その姿を見るだけでもきっとどこか救われた気になる。
オルバがそうだったのだから、アラジンだって変わらないだろうと思うのだ。
「そうだね。じゃあ今度は、アリババくんの好きそうなものをお土産に持ってくるよ」
「……程々にしてくれよ。あのひと、油断するとすぐ太るから」
「うん」
オルバの言葉に何かを思い出したらしく、アラジンは楽しげにふふ、と笑った。
思い出が多ければ多いほど、今のアリババと向き合うのは確かに辛く寂しいものだろう。
けれど、その痛みに向き合えないほど柔な精神力をしている筈がないのだ。
アラジンの強かさは、オルバも何度か見せられ知っている。
「あ!」
「? どうしたよ」
「今ね、星が二つ同時に流れたんだ」
「ふーん……見てなかった」
珍しい現象ではあるかもしれないが、見てない以上反応が鈍くなるのは仕方ない。
そもそもオルバは星なんぞ見ても腹は膨れない、と考えてしまう現実主義者だったりするので、元々の温度差があったりもするのだが。
「珍しい現象だし、何かいいことあるんじゃないかな」
「それは、預言か? マギとしての」
「ううん、違うよ。僕の希望かな」
「……じゃあ、幸運があるように適当に祈っててやるよ」
預言よりも、運命よりも、人の想う力の方が強いのだ、と。
オルバはそうアリババの生き様から教えられていた。
それでもマギであるアラジンの言葉であるからには、何か特別めいたものを感じてしまう。
占い師のように星を読むことはオルバには出来ないしそもそもそういった類の話を信じてはいないが、いいことがあるかもしれない、と言われて悪い気はしなかった。
その「いいこと」がアラジンに訪れるのかそれともオルバに訪れるのかは分からない。
けれど願わくば、それがアリババが笑ってくれるような何かであればいいと。そう願った。
◆
アラジンが帰途に着き姿を消してから、幾許かの時間が流れた。
目が冴えてしまったオルバは何となく景色を眺めながら、明日の朝食は何にしようかなどと他愛もない事を考えていた。
その時だ。
「オルバ」
呼び声に、振り向く。
なんで、どうして。だって、眠っていた、その筈だ。
アリババがぐっすりと寝入っているのを確認して、だからこそオルバは部屋を出てきたというのに。
起きてきた事にも驚いたが、それより何より、今。
間違いか勘違いでなければ、アリババは、オルバの名を呼んだ。
一度眠って目が覚めた時には、アリババの記憶はリセットされてしまっているのに。
「風、ちょっと冷たいな。風邪ひいちまうぞ」
言いながら歩み寄って来るアリババは裸足で、そちらの方が余程寒そうに見える。
薄着なのはそっちだろ、と。そう窘める事は簡単な筈なのに、どんな言葉もオルバの脳内に浮かんではこなかった。
目の前までやって来たアリババが、その手に持っていた上掛けをオルバの肩にかけた。
オルバの方が上背がある為だろう、アリババの踵が僅かに浮いたのが視界の端に写った。
「なんだよ、幽霊にでも会ったみたいな顔して」
ふ、と笑ってアリババが言う。
けれどすぐに似たようなもんかあ、と肩を竦めた。
オルバは尚も言葉を紡げないままだった。
それどころか、身動ぎ一つ出来ない。
物音一つでもたてれば、目の前にいるアリババが夢か幻のように消えてしまう気がしたからだ。
そこまで考えて、これが夢なのではないかという可能性に気付く。
オルバはいつの間にか眠りに落ちていて、自分に都合のいい夢を見ているのだ、と。そう考える方が自然で辻褄が合う。
躊躇った末、オルバは恐る恐る口を開いた。
「本当に……アリババ、なのか」
「うん、俺です。って、何か変な会話してるな、俺たち」
「俺の見てる……都合のいい夢とかじゃ、なくてか」
「うーん、まあ夢だと思われても仕方ねーけど。俺も、正直こうやって話せてるのが奇跡だと思ってるし」
きせき、と。
オルバは半ば呆然としたままアリババの言葉を口の中で繰り返していた。
音にはしなかったのだが、唇の動きを読んだのだろう。アリババが一つ頷く。
「そ、奇跡。俺もどうやってここにいるのか、よく分かんねえんだ」
「治ったわけじゃ、ないのかよ」
「……ごめんな」
静かな声音で言い、アリババは微笑する。
その笑い方は、ここ最近では見る事のなかったものだった。
一見すると穏やかな、それでいてその奥に様々な感情を含み覆い隠しているかのような笑み。
記憶がリセットされるようになる直前のアリババがよくしていた表情だ。
アリババの辿って来た道筋は決して平坦なものではなかった。
オルバが同行を許されてからも、それより前も、アリババはまるで自身を削るかのように世界と対峙していた。
本人は自己犠牲などとは思っていないだろうが、傍から見ている分には時折不安になる程に。
アリババが誰か一人を選ぶ事はないと思っていたのも、彼が添い遂げるのは世界そのものとだろうと感じていたからだ。
だがその均衡は崩れた。
アリババの記憶が一日しか保たなくなるという、誰しもが想像していなかった事態の訪れによって。
「謝らせたいわけじゃない」
「……うん。でも、やっぱり、ごめん」
「あんたは何も悪くないだろ」
アリババがこうなってしまった直接の原因は未だよく分からないままだ。
だが怪我をしたわけでもないし頭を打ったわけでもない以上は、精神的なものが要因だろうという所でまとまっている。
それを逃げだという者も世の中にはいるだろうが、アリババの事をよく知っている者たちはそうは思わないだろう。
本人に自覚はなくとも、アリババの均衡はギリギリだったのだ。
赦し、背負い、立ち向かい、戦い続ける中で神経が、心が擦り減らされる事は多々あっただろう。
許容量を超えた先に待つのは崩壊だ。
粉々に砕けて取り返しのつかない事態になる前に、アリババの心が自己防衛した結果が今の記憶がリセットされるという現象に繋がっているのではないか、というのが彼の周囲の見解だった。
アリババが世界を護ろうとしたように、オルバはアリババを護りたいと思った。
世界よりもアリババの方がずっと重要なのだとまでは、流石に本人に告げた事はなかったけれど。言ってしまえば、アリババの為している事を否定しているようになってしまう気がして。
だが、彼の眷属になった者たちは多かれ少なかれ似たような想いを抱いているだろう。眷属でなくとも、アリババに道を示された者たちはきっと同じ気持ちの筈だ。
アリババに救われ生かされた命だ。世界を広げ、繋げてくれたのは他ならぬ彼だ。
恩ある人の道行きの安寧を願うのは、人としてはあまりに当たり前な心の動きだろう。
本当は。
いつだって、ずっとずっと、オルバはアリババに会いたかった。
彼と共にいられる事は苦痛ではなかったし頼られる事への優越感があったのも事実だ。
だがそれとはまた別の軸で、自分をちゃんと知っているアリババに会いたかった。話をしたかった。
叶わぬ想いだと分かっていながら、それでも伝えたかった。
「アリババ」
「うん」
「俺、あんたが大事だ。始まりは感謝だったけど、今は違う」
告げる事が正しいのかどうかなど、オルバには分からない。
だが、言わずにはいられなかった。
アリババは今の状態を奇跡だと言った。
奇跡、とは。何度も起こらないからこそ、そう呼ぶのだと。
少なくともオルバの中での認識はそうだった。
アリババが奇跡だとわざわざ口に出したのも、これがそう何度も起こりうる事象ではないとどこかで分かっているからかもしれない。
アリババの頬にそっと指で触れる。
オルバがこれから告げる言葉が分からない筈はないのに、アリババは身動ぎしなかった。
向けられる眼差しは、ただ静かだ。
傍らに在る事を、触れる事を許されている。それだけでは満足出来なくなったのは、いつからだっただろう。
抱えすぎた想いを苦しく感じることはなかったけれど、行き先の見えない感情を抱き続ける事に僅かながらも寂寥を覚えていたのも事実だ。
アンタは、いつだって、そうやって俺を。
「俺は、あんたが好きだ」
「……うん」
オルバの告白に、アリババは静かに頷いた。
頬に触れている指に、そっとアリババが手を重ねてくる。
それだけの事に、なんだかやけに泣きたい気分になった。
アンタはいつだって、そうやって俺を赦して、甘やかして、笑うんだ。
向けられる気持ちに恋情はなくとも、大切にされている。それはオルバ自身嫌と言うほど分かっていた。
愛されている、その事実は誇りであり何よりもオルバを支える強さだった。
だから。
「……足りないわけじゃない。あんたが俺を大事にしてくれてるのは、ちゃんと知ってる。だから、これは俺の我儘だ」
「オルバ、お前さ」
「……ん」
「いい男になったなあ」
「あ?」
断りの言葉を予想していただけに、何言ってるんだこのひとは、と思ってしまったのは仕方ない。
感情がそのまま顔に出たのか、アリババがふっと笑う。
見知った表情だった。
オルバが旅に同行したいと申し出た時、眷属器を発動した時、俺が護るからと告げた時、アリババはいつも笑っていた。
笑って、それから。
「我儘だなんて言わなくていいんだ。って、返事が出来ない俺が言えた義理じゃないけどさ」
オルバの指に重ねられていた手が、頭を撫でてくる。
昔と違いオルバの方が上背があるせいか、少し苦しそうな体勢だったけれど。触れる指の暖かさは変わらなかった。
その仕草も表情もオルバがよく知るアリババのもので、胸の奥が引き絞られるような気分になった。
あの日々の続きのような顔で笑っているのに、この島に来てからの毎日の方が夢であるようにさえ思えるのに、アリババとの邂逅は長くは続かないのだと言う。
淋しいし、悔しいし、ひどいと思う。
だが、そう感じたのは何もこれが初めてではなかった。
共に過ごすうちに、アリババの残酷さは身に染みて知っていた。
優しさや慈しみこそがもたらす毒もある事を、多分きっとアリババ自身も分かっていたのだろう。
今となっては、そう考えられる。
「ホント、あんたってずるい」
「ん、ごめん」
「……笑ってんじゃねえかよ」
「お前も笑ってんじゃん」
指摘にうるせえよ、と言いながら頬に触れていた指を摘まみ上げる形に変えた。
ちっとも力なんて込めていないのに、アリババが大袈裟に痛いと言って笑う。
このひとはずるい。そんな事知ってる。
それでも、惹かれた。
ただ、それだけの話だ。
「なあ、俺さ。絶対あんたを捕まえてみせるから」
「んー……それは、どっちの意味でだ?」
「勿論、両方」
アリババの記憶をちゃんと戻すという意味でも、自分に陥落させてみるという意味でも。
即答したオルバに、アリババはぽかんと口を開けて。
それからすぐに破顔した。
「欲張りだなあ、お前」
「俺はあんたの眷属だぞ。奇跡くらい起こせなくてどうすんだ」
「いやもうホントいい男に育っちまってまあ……」
「拒絶されないから開き直る事にした」
しれっと告げれば、アリババが声にならない声で呻いた。
本当は分かっている。アリババが答えを保留にしたのは、きっと明日からはまたいつものハジメマシテから始まる日々に戻るからだと。
オルバの告白を受け入れようと拒否しようと、明日からのアリババはそれを知らない。
ならばいっその事答えずにおこうという配慮なのだろう。
だからこそオルバはそれを逆手に取る事にした。
伊達にアリババの眷属に選ばれたわけではないのだ。アリババに言ったら否定するかもしれないが、強かさは彼譲りだ。
根拠はないし、方法が見つかったわけでもない。
それでも、諦めない。そう決めた。
告げた言葉の答えを聞くまで、みっともなくともあがいてみせると。
オルバの眼差しを受けて、その決意の一端を感じ取ったのだろう。
アリババはがしがしと頭をかいた。
「オルバ」
「なに」
肩を掴まれた、と思った次の瞬間にそれは起きていた。
頬に押し当てられたぬくもりは一瞬で離れたが、咄嗟にアリババの腕を掴む。
反射的に指に力を込めてしまったけれど、それに気付けるほどの余裕はなかった。
「あんたさあ……ホントに、俺、調子乗るぞ」
わざわざ一言ずつ区切りながら言えば、アリババが眉を下げるのが見えた。
困らせたいわけじゃないのに。
しかしこの場で謝るのも何だか違う気がしたので、結局は黙り込む。
「いやまあ、激励のつもりだったんだけど……」
「何の」
「奇跡。起こすんだろ」
今度の沈黙は、意図してではなく訪れた。
ああもう本当にあんたは人の思考の上をいくよな、と言いたい気分だったのを呑み込んだだけなのだけれど。
優しくて残酷で天然ってあんたどこを目指してるんだ、と。
喉の奥どころか口の中辺りまでせり上がって来たのを飲み下したのは、多分言ってもアリババは理解しないだろうと踏んだからだ。
オルバの沈黙をどう取ったのか、アリババが置いたままだった手で肩をぽんぽんと叩いてきた。
「……待ってるからな」
ぽつりと言ったアリババの背後で、音もなく星が流れるのが見えて。
この人には一生かかっても勝てる気がしない、そう思った。
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