蒼穹に落とされた自由は涙を零すか
「オイ、起きねえか!」
「っ、ぐ……!」
乱暴な声と共にぐいと髪を引っ張られ、アリババは目を覚ました。
一瞬状況が掴めずに途惑うが、すぐに思い出す。盗賊と対峙し負けた後捕らえられたアリババは、奴隷商人に身を売られたのだ。
商品だから、と暴力を振るわれるような事はなかったが、それよりも人間扱いされない方が精神的に堪えた。
奴隷はあくまで商品であり「物」でしかなく、人としての尊厳などあるはずがない。そんな世界が当たり前のようにある事が衝撃的で、自身がその立場にいるのだという事実は容赦なくアリババの意識を打ちのめした。
捕らえられてからというもの、精神的に落ち着かないせいか浅い眠りばかりが続き、常に身体がだるい。だがたかだか奴隷のそんな事情を慮って貰えるはずもない。
「さっさとしろ」
促され、男に続く。
両足に嵌められた枷と、そこから伸びる鎖がじゃらじゃらと音を立てた。
この音は嫌いだ。厭でも自分が今置かれた状況を思い知らされるから。
売られる立場となってからそう日数は経過していないが、何をするにも耳について離れない。
「ここだ、入れ」
暫し歩いて辿り着いたのは、やはり檻の格子の前だった。
だが先程までの檻と様子が違う。先刻までアリババが入れられていた檻は狭くて暗いものだったのだが、今目の前にある物は明らかに広い。
そして、周囲を明かりが照らしている。まるで中の様子が外から伺えるようにしているかのように。
「ここ、は……」
「ああそうだ、こいつはお前の得物だな?」
「え」
言いながら手渡されたのは、確かにアリババが身に着けていたナイフだった。
暴れられては困るから、と最初に取り上げられたものだ。まさか返されるとは思っていなかったから、咄嗟に胸元に抱え込む。
アリババの動作を見た男が、どこか意地悪そうににやりと笑った。
「そいつはまだしまわねえ方がいいぞ」
「……何」
「これから分かるさ」
意味深な言葉に聞き返すより早く、背中を押されて檻の中に押し込まれてしまう。
よろめきながらも何とか体勢を立て直したアリババは、顔を上げて瞠目した。
入口からは見えなかったが、檻の正面には椅子が並べられており、そこには何人もの男たちが座っていたのだ。皆一様にこちらを窺っている。
アリババを眺めて隣りに座る者とぼそぼそと言葉を交わしている男などもいた。まるで見世物になったようで、気分が悪い。
ナイフの鞘を握る指にぎゅっと力を込めた、その時だ。
「お集まりの皆様方、お待たせいたしました! 本日も強き奴隷をお求めの皆様に打ってつけの催しをご用意いたしました!」
突如朗々と響き渡った声に驚き、肩が震えた。
檻のすぐ手前に立つ男の声らしい。アリババはその背中を見ながら、心臓が嫌な風に鼓動を跳ねさせていくのを他人事のように感じていた。
口の中が苦い。厭な予感がする。
「これより行われますのは、腕自慢の奴隷たちによるその命をかけた決闘でございます! 一対一で対峙し、生き残った方だけを競りにかける対象と致します! 戦闘の様式などに拘りのお客様は、奴隷の戦いぶりにもご注視ください!」
力を込め過ぎたアリババの指先は、白くなっていた。
だが、それを認識する事も出来ない程に脳内が混乱していた。
見世物のようだ、そう思った。その考えが間違っていたと知る。よう、ではなく完全にこれは見世物なのだ。
男の言葉を反芻する。聞き間違いでなければ、生き残った方、と口にしていた。
つまり、これから行われるのは。
「それでは早速、今宵の第一戦と参ります!」
奴隷同士の殺し合い、という催事、だ。
◆
随分と久方ぶりに訪れたバルバッドは、記憶の中と変わらずやはり潮の香りがしていた。
懐かしい芳香に、胸の奥の方が疼くような。
痛むような甘いような感情から、無理矢理目を逸らし抑え込む。感情はいらない。奴隷という立場である以上、不必要に心を動かせば動かす程、辛い事が多いのだと学んでいた。
アリババがバザールに出向いたのは、主人に使いを命じられたからだ。
性奴隷であるとは言っても、結局は奴隷なのだから使われることは珍しくない。
一人で使いに出されたアリババが好機とばかりに逃げ出さない理由、それは首に嵌められた隷属の証があるからだ。無論枷そのものだけが原因ではなく、それに付随する自分は奴隷なのだという意識こそがアリババの足を鈍らせているのだけれど。
一見して奴隷なのだと分かる首輪を人目に晒しながら歩いているのは、慣れたとはいえやはりどこか居た堪れない。主人もアリババのそんな心境を知っているのだろう、悪戯にこうして一人で使いに出されることが儘あった。
使いに出された時のアリババは、いつもは首の後ろで一本に括っている髪を下ろし少しでも首輪が見えづらいようにして、更に俯き顔を隠すようにしながら歩くのが常だった。
本当に見られているかどうかなど分からない。自分の気にし過ぎでしかないのかもしれない。
そう自身に言い聞かせてみればみるほど、首にかけられた枷が重く圧し掛かって来るような気がした。
出来る事なら、カシムを探して歩きたかった。
スラムはなくなってしまっていたが、居住区とやらを訪ねれば会えるかもしれない。もしかしたら、マリアムにだって。
そう考えれば考えるほど、脚が重くなるのが分かる。
会いたいと思うのは本当なのに、それ以上に今の自分を見せたくないと感じてしまう。
奴隷になっているからと言ってカシムもマリアムも自分を敬遠したりはしないだろう。だからこれはアリババ自身の問題だった。
見られたくない。長く伸びた髪も、首輪も、何もかも全て。
買い物は終えたし早く帰ろう、と抱えた袋を持ち直したその時だ。
「っ、おい!」
声と共に、肩に手を置かれ、無理矢理振り向かされた。
何かしただろうか。面倒事に巻き込まれ帰りが遅くなるのだけは勘弁したいのだけれど。
そんな事を思いながら振り向き、そうして目の前にいた人物に、一瞬息が止まった。
「……カシム……」
色々思い出し考え込むより早く、掠れた声で名を呼んでいた。
呼んでからようやく、思考が追いついてくる。
何故ここに。そうだ、ここがバルバッドだからだ。
どうして自分だと。顔を隠していたわけでもないのだから、幼馴染みであったカシムに気付かれるのは仕方のないことだ。
驚いているアリババの前で、声をかけてきたはずのカシムの方が黙り込んでいた。
視線を辿り、納得する。
カシムの目が捉えていたのは、アリババの首元だったから。
「少し、話そうか」
告げて、カシムの腕を掴むと賑わう道から外れて人通りの少ない路地へと足を向けた。
何か思う所があるのか、それとも二年前までは王宮で暮らしていたはずのアリババが奴隷である事に驚いているのか、カシムは黙り込んだままだ。
変わったのは自分だけではない、カシムもだ。
二年前より髪も背も伸びていて、顔立ちも少年めいたものから大人に近いものになっていた。
アリババとて成長はしているはずなのだが、以前よりも目線が違う。それが少し哀しくも悔しくもあった。
奴隷とてタダではない。買った以上は支払った代金に見合うだけの働きを求めるのが普通だろう。だから飢えるほどに食事を抜かれたりという事はなかった。
けれど主人はどうやらアリババが成長するのを厭っているらしく、与えられる食事は最低限のもので。精神的な負荷もあってか、アリババの成長は同年代と比べると明らかに遅かった。
開いてしまった身長差は、まるでそのまま今の自分とカシムの距離のように感じられて。
無性に寂しいような気分になり、まだそんな事を思えるだけの感受性が自分に残っていたのだと自覚し驚かされた。
何もかも、凍りついてしまったのだと思っていたのに。
手のひらに伝わって来る、カシムの腕の体温が暖かい。そう感じる自分が、何だかひどく滑稽だった。
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